第3話
翌朝は、麓のホームセンターまで車を走らせるところから始まった。片道四十分。都会なら「近所」と呼べない距離だが、山暮らしではこれが日常の買い出しになる。
鍬とスコップ、それに夏野菜の苗を何種類か。トマト、ナス、キュウリ。荷台に積んで山へ引き返し、俺はいよいよ、裏手の段々畑と向き合った。
長いこと放っておかれた畑は、雑草が腰の高さまで茂り、土は踏み固められて石のように硬かった。まずは草をむしり、根を掘り起こし、転がっている石を一つずつ除けていく。
鍬を振り下ろすたびに、乾いた土の塊がごろりと割れて、内側の湿った黒い土が顔を出す。むわりと立ちのぼる、土そのものの匂い。子どもの頃に嗅いだ雨上がりの校庭を、なぜか思い出した。
半日も続けると、手のひらにはいくつもマメができ、額の汗が顎から滴り落ちた。腰も背中も悲鳴をあげている。それでも、不思議と苦にならない。
むしろ、体のすみずみまでちゃんと使っている感覚が心地よかった。こういう健やかな疲れは、久しく味わっていなかったなと、耕しながらしみじみ思う。
疲れているのに、気分はやたらと晴れている。
鍬を振るううちに、俺は自然と作業の効率を考えはじめていた。
硬い土をいきなり深く掘ろうとすると刃が跳ね返されて疲れるだけだから、まず表面を浅く砕いて、乾いた層を割ってから鍬の刃を深く入れる。石は大きいものから先に除ける。
掘り出した土は畝になる位置へまとめて寄せておけば、あとで畝立てが楽になる。
——こうやって手順を組み立てていると、つい昔の癖で「これは並列で処理したほうが早いな」なんて言葉が頭に浮かんで、俺は一人で苦笑した。畑仕事に処理の最適化もないもんだ。
それでも、体を動かしながら段取りを組む楽しさは、思っていた以上に自分に合っていた。
畝を立て、土をならし、買ってきた苗を等間隔に植えていく。ひとつひとつ、根を傷つけないよう土に馴染ませ、手のひらで軽く押さえる。
頼りなげに揺れる緑の苗を見ていると、なんだか自分の子どもみたいに愛おしくなってきて、俺は一人で苦笑した。ずいぶん安上がりな親心である。
ちゃんと世話をすれば、こいつらは夏には赤や紫の実をつけてくれるらしい。楽しみが一つ、また増えた。
畑の隅には、一緒に買ってきた種芋を深めに埋め、その脇にトウモロコシを一列蒔いておいた。芽が出るまで放っておけるものが一つあると、気が楽でいい。
植え終えて水をやる頃には、日が傾きはじめていた。じょうろの水が土に吸い込まれ、色が濃く変わっていくのを、俺はしばらく飽きずに眺めていた。
ふと気づくと、朝方に馴染ませたばかりの苗が、もう根を張ったみたいにしゃんと立っている。
植えたてはあんなに頼りなかったのに、たった半日でこの馴染みようは、いくらなんでも早すぎやしないか。
「この山、土がいいのかな」
俺はそう独りごちて、腰を伸ばした。それから畝の端に目をやって、少し口をつぐんだ。キュウリの一株だけ、葉先が力なく垂れている。植えつけのときに土を押さえる手が強すぎて、細い根を潰したのだろう。畝の線も、端へ近づくほど頼りなく曲がっていた。
しゃんと立った株を眺めて悦に入るより、この一株を明日どうするか考えるほうが、たぶん身になる。
畝に植えた苗はトマト、ナス、キュウリ。どれも夏には食べきれないほど実るらしい。もぎたてのトマトを丸かじりする自分を想像して、俺は今から少しだけ気が早くわくわくした。
せっかく畑があるんだから、来年はもっと種類を増やしてもいい。葉物や根菜、香りのいいハーブ。頭の中で、まだ影も形もない未来の畑が、勝手にどんどん広がっていく。
こういう「次はこうしよう」が、勝手に湧いてくる。
夕方、台所に残っていた買い置きの人参と大根を切りそろえ、山道の脇で摘んできたフキとミツバを添えて、庭の隅の棚に並べておく。畑の初物はどう急いても夏まで先だから、今日出せるのはこの程度だ。
顔も知らないあの物好きさんが、また来るかどうかは分からないけど、それでも置いておくだけならタダだし、腐らせるよりずっといい。
そして次の朝。棚の野菜は、やっぱり消えていた。料金箱の缶には、金のコインが一枚。そして缶の横の棚板に、丁寧に折りたたまれた毛皮が一枚、そっと置かれていた。
手に取ると、ずしりと重く、指が沈み込むほど毛足が長い。艶やかで、高級店にあったといわれても納得するほど上物だ。
「物々交換のつもりかな。面白い人だ」
俺は感心した。金のコインだけじゃ味気ないと思ったのか、粋なことをする。
こんな上等な革を、いったいどこで手に入れたのやら。まあ、深く詮索するのも野暮というものだ。これだけ立派なら、道具入れに仕立てれば長く使えるし、椅子の座面に張ってもいい。
頭の中では早くも、この革を使ったDIYの案がいくつも浮かんでいた。
ただの野菜と、こんな上等な革が釣り合うのかは正直あやしいが、向こうがそれでいいと言うなら、こちらがとやかく言うことでもないだろう。俺はほくほくしながら、毛皮を抱えて家に戻った。
それが遠い異世界の魔獣の毛皮で、向こうでは腕のいい戦士の防具になるような代物だなんて、想像すらしていなかった。
俺にとってそれは、あくまで「気前のいい常連さんがくれた、ちょっと珍しい革」でしかなかった。
◇◇◇
その日の夕方、掘り返されたばかりのふかふかの畝の中で、両手ほどの苔玉が、うれしそうにころんと転がった。
土と植物の精霊、コロだ。
「あるじ、たくさんおこしてくれたねぇ」
長いこと踏み固められて、石みたいに眠っていた土だった。それがきょう、鍬でほろほろとほぐされて、ひさしぶりに息をしはじめたのだ。コロは植えられたばかりの苗の根っこへ、ぺたりと頬をすりよせた。
「だいじょうぶ、こわくないよぉ。ほら、のびてごらんなの」
根がおずおずと土をさぐると、コロはまわりの土をもっとやわらかく、もっとあまくしてやった。細い根はよろこんで、するすると深くのびていく。半日で苗がしゃんと立ったのは、山の土がいいからじゃなくて、コロが手伝ってあげたからだった。
「あるじ、つちがいいって、よろこんでたよぉ」
ちょっとだけ、ずるして自分のことをほめられた気がして、コロはえへへと目を細める。
それに——あの人は、野菜のヘタを土に埋めてくれる。あれがいつか、いいにおいの堆肥になるのだ。それを思うと、コロのまんまるな目は、しあわせそうにとろけた。
「ずっと、ここにいてほしいなの」




