第2話
住むと決めたからには、まず家を人間の住める状態にしなければならない。朝飯を終えた俺は、荷台から工具箱と電動ドライバーを下ろし、腕まくりをした。
歪んだ雨戸、破れた網戸、ぶかぶかと踏み抜きそうな縁側の板。直すべきところは、数えるのも嫌になるほどある。
こういうとき、俺の元・システムエンジニアという経歴は、意外なところで役に立った。ホームセンターで一緒に買ってきた補修キットの説明書を広げ、手順を頭の中で組み立てる。
どの作業を先にやればあとが楽になるか、どの部材が足りなくなりそうか。
要は段取りの問題で、複雑な仕様書を読み解いてきた身からすれば、DIYの説明書なんて拍子抜けするほど親切に書いてある。
雨戸のレールの歪みを金づちで叩いて直し、外れかけた戸車を新しいものに替える。がたついていた縁側の板を剥がすと、下からは湿った土の匂いと、長年溜まった枯れ葉が出てきた。
寸法を測って買ってきた板をあてがい、鉛筆でしるしをつけ、ノコギリで挽く。刃が木を噛んで進むたびに、細かなおがくずがはらはらと落ち、切り口からは杉らしい甘い木の香りが立った。
都会の喧騒を忘れさせるような匂いに身を包まれながら、あてがった板にビスを打ち込むと、電動ドライバーの先が回り、ビスがぐぐっと木に沈んでいく。この手応えが、たまらなく好きだ。
途中で何度か手を止めては、床下に頭を突っ込んで根太の傷み具合を確かめ、直す順番を組み替えた。
こういう「どこから手をつければ後が楽になるか」を考えるのは、昔の仕事で嫌というほどやった作業の割り出しと、頭の使い方がまったく同じだった。
思えば前の仕事は、一日じゅうキーボードを叩いても、目に見える形はほとんど残らなかった。徹夜で書いたコードは画面の中で完結して、翌朝には仕様変更で消えていく。
『頑張った』の証拠がどこにもない毎日は、じわじわと人をすり減らす。その点、ここでは違う。
行動が、そのまま結果になって返ってくる。この当たり前のことが、俺にはご褒美みたいに嬉しかった。
気分がよくなった俺は勢いに乗って、破れていた網戸も張り替えた。古い網をカッターで切り取り、新しい網をピンと張って、ローラーでゴムを溝に押し込んでいく。
このゴムを押し込む作業が、妙に気持ちいい。たわんでいた網が、端からぴしりと張っていく様子は、こんがらがった問題が一つずつほどけていくのに似ていた。
張り替えた網戸を透かして山を見ると、景色まで一段くっきりして見える気がした。うん、俺は単純な男だと思う。
昼過ぎには、縁側はきしみもせず、雨戸もするすると動くようになっていた。手をかざして仕上がりを眺め、俺は満足げに頷く。
「よし、これで床は踏み抜かないし、ところどころ直せたはずだ。まあ、六十点ってところかな」
プロの大工が見たら鼻で笑うかもしれない。でも、住めればいい。食えればいい。完璧な百点を求められ続けた反動なのか、俺はこの「六十点でヨシ」の気楽さが、今の自分にちょうどいいと感じていた。
そういえば、と手を止める。作業の途中、ビスがどうしても一本足りないはずだった。買った本数はきっちり数えて袋に入れていたから、間違えようがない。
なのに、いざ最後の一本という段になって袋の底を探ると、なぜか一本、ちょこんと残っていた。
「……数え間違えたかな...?」
物がやたらとちょうどよく見つかる家だな、とは思ったが、古い家というのは案外そういうものかもしれない。
一段落ついて、ポケットの中の金貨を取り出す。改めて陽の下でよく見ると、やはり妙なコインだ。刻まれているのは見覚えのない文字と、翼の生えた獣らしき紋章。
「外国の記念コインか、それとも昔のゲームか何かのグッズかな」
値打ちは分からないが、手ざわりと重みには味がある。俺はそれを、直した棚の引き出しに、小物入れがわりにして放り込んだ。売り払って現金に換えようとは、少しも思わなかった。
金に換えた瞬間、この静かな暮らしに、あの街の生臭さが混じり込んでしまう気がしたからだ。
この金貨が、実はとんでもない値打ちものだなんてことは、もちろん誠は知らない。知らないまま、誠はそれを「ちょっと変わった外国コイン」として、引き出しの奥にしまい込んだ。
直したばかりの縁側に腰かけ、夕暮れの山を眺める。板はもう、体重をかけてもびくともしない。
「明日は、畑をやるか」
荒れた段々畑を思い浮かべながら、自分の暮らしを一から組み立てていくことに、胸の奥で静かに心地よさを感じた。
◇◇◇
その夕方。誠がのこぎりを置いて満足げに縁側を眺めているころ、直したばかりの作業台のはしで、葉っぱの羽を持つ小さな影が、むっつりと腕を組んでいた。
木と風の精霊、モクだ。
「フン。あいつのビスの打ち込み、思ったより筋がいいじゃないか」
渋い顔のまま、モクはぽつりとつぶやいた。実のところ、床板を張る途中で、ビスは一本足りなくなるはずだった。数え間違いではない。もとから、きっちり一本だけ足りなかったのだ。
このまま気づかれれば、あの男は手を止めて、また麓まで買いに下りることになる。せっかく乗ってきた仕事の調子が、そこで途切れてしまうだろう。
「……見ていられん、というだけだがな」
そう言い訳しながら、モクは袋の底へ、ありあわせの一本を忍ばせておいた。木を読み、風を通す精霊にとって、それくらいはわけもない。
なのに当の本人ときたら、まるで見当ちがいの感心をしている。
……やりすぎたか、とモクは思った。
誠には、モクの声も、その渋い顔も届かない。届かないけれど――締めきったビスの頭が、傾いた陽を受けて、ちょっとだけ得意げに光った。




