第46話
夜明け前に、俺は目を覚ました。
鳥もまだ本気で鳴いていない、青みがかった時間だ。ゆうべ、どうにも寝つけなかった。まぶたを閉じるたびに、畑の畝の上でふわりと像を結んだ、あのまんまるでモフモフした何かがちらついて離れなかったからだ。
苔玉が、動いた。
そんなはずはない、と理屈では思う。思うのだが、この山に来てからの数ヶ月、俺の理屈はことごとく裏切られてきた。だったら、もう一度だけ確かめてみたっていいだろう。
俺は寝間着のまま外へ出た。ひんやりした空気が、素足に心地いい。
畑は、露をたっぷり含んで銀色に沈んでいた。トマトの葉も、キュウリのつるも、一枚一枚に小さな水の玉を乗せて、明けかけの光をぼんやり返している。土の匂いが、いつもより濃い。夜のあいだに山じゅうが吸い込んだ湿り気が、足元からゆっくり立ちのぼってくる。
俺は畝のあいだにしゃがみ込んで、ひとつ、深く息を吸った。
森野さんに教わったやり方を、頭のなかでもう一度なぞる。力を抜く。目の焦点を、見ているものより、ほんの少しだけ奥へずらす。そうして、「そこにいる気配」の方向を、目じゃなくて息で感じ取る——。
「……要するに、ピントを一段ぼかして、普段フィルタしてる信号を拾いに行くわけだ」
声に出すと、少しだけ肩の力が抜けた。理屈に落とし込めると、俺はどうも安心するらしい。元SEの悲しい性だ。
肩を落とし、あごを引いて、まぶたを半分だけ下ろす。
息を、吐く。
いつもなら、ここで景色がただ滲むだけだ。輪郭がぼやけて、色が混ざって、それきり。けれど今朝は、違った。滲んだ視界の隅で、露の玉とは明らかに質の違う光が、ぽつ、と灯った気がした。
逃がすな。俺は焦点を、そのやわらかい光へ、そうっと寄せていく。
急いではいけない。ゆっくり、水面に浮いた木の葉を掬うみたいに。にじんだ光が、少しずつ、密度を持ちはじめる。ぼんやりとした丸が、輪郭を得て、質感を得て——毛先の一本一本まで、すっと像を結んだ。
息を止めた。まばたきひとつで、ぜんぶが元のただの景色に戻ってしまいそうで、怖かった。けれど、光は消えなかった。むしろ、俺が見つめれば見つめるほど、そこにある手ごたえは、はっきりと確かになっていく。
輪郭の内側に、色が満ちる。露にぬれた苔の、深い緑。まるで、ずっとそこにあったものに、俺の目のほうが、ようやく追いついたみたいだった。
畝の上に、それはいた。
両手にちょうど乗るくらいの、まんまるな苔玉だった。緑のモフモフに全身を包まれて、露をきらきらと乗せている。そのてっぺんあたりに、つぶらな瞳がふたつ。真っ黒でまんまるのその目が、まっすぐに、こちらを見上げていた。
時間が、止まった。
俺は瞬きすら忘れて、その苔玉を見つめた。向こうも、微動だにせず俺を見つめ返している。露のしずくが一滴、葉先からぽたりと落ちた。その音が、やけに大きく耳に響いた。
見間違いじゃない。気のせいでもない。そこに、いる。
じっと見つめあったまま、どれくらい経ったのか。やがて、その苔玉が、ふるりとひとつ身を震わせた。そうして、まんまるの口をちんまり開くと、あたたかくて、幼くて、寝起きみたいにのんびりした声で、こう言った。
「……あるじ? やっと、見えたの?」
◇◇◇
しゃ、と喉が鳴った。
「しゃ、喋っ……!?」
腰から力が抜けて、俺はそのまま尻もちをついた。露に濡れた畝のあいだに、みっともなく手をついて、ぺたんと座り込む。土のひんやりした感触が、寝間着越しにじわりと染みてくる。
「え、待って、待ってくれ、頭が追いつかない」
口からこぼれるのは、そんな間抜けな言葉ばかりだった。
不思議と、怖くはなかった。熊が出た、とか、知らない人間が畑にいた、とかなら、俺はもっとまともに驚けたと思う。でも、目の前のこれは——このモフモフした苔玉は、あんまりにも、まんまるで、あんまりにも、のんびりしていて。恐怖の入り込む隙が、どこにもなかった。
あるのはただ、頭のなかがぐるぐるかき混ぜられるような、あたたかい混乱だけだ。
苔玉は、俺が腰を抜かしたのを見て、きょとん、と首をかしげた。いや、首があるのかどうかも怪しいのだが、とにかく、かしげた。そういう仕草をした。
「あるじ、どうしたの? びっくりした?」
「びっくり……びっくりって、そりゃあ、な。するだろ、普通」
声が裏返っているのが、自分でもわかる。俺は座り込んだまま、乾いた笑いをこぼした。
「苔玉が、喋ってる……。夢か? いや、尻は冷たいし、露は本物だし……」
ためしに、自分のほっぺたを軽くつねってみる。ちゃんと痛い。だめだ、これは夢じゃない。夢じゃないやつだ。
俺は混乱したまま、頭のなかで必死に状況を整理しようとした。喋る苔玉。想定外もいいところだ。要件定義のどこにも、こんな仕様は書いていない。書いてあってたまるか。
すると苔玉は、俺のうろたえっぷりがおかしかったのか、モフモフの体をふるふる、ふるふると弾ませて、心底のんびりと笑った。
「ふふ。あるじ、へんな顔なの」
「へんな顔にもなるわ……」
◇◇◇
俺が畝にへたり込んだまま息を整えていると、その苔玉は、ころん、と畝を転がり降りてきた。
露をぬぐいもせず、俺のあぐらのあたりまで、ぽてぽてと近づいてくる。そうして、当たり前みたいに、俺の膝によじ登りはじめた。モフモフの体が、意外にもしっかりした感触で、寝間着越しにあたたかい。ずっしりと、生きものの重みがある。
「ずっと、いたよぉ」
膝のてっぺんに落ち着くと、苔玉はそう言って、俺を見上げた。
「ずっと、って……」
「うん。あるじがこの山に来た、いちばん最初の日から。ぼく、ずっと、あるじのそばにいたの」
のんびりとした、けれど確かな声だった。俺は、その黒くてまんまるの瞳を、まじまじと見つめ返す。
最初の日から。軽トラの荷台で縄が鳴った、あの日から。立派なボロ家に呆れて、それでも肺の底まで新緑を吸い込んで、体の芯がすっと軽くなった、あの日から。
思い返せば、この山ではずっと、妙なことばかりだった。手こずるはずのかまどが素直に燃えた。冷めるはずの湯が冷めなかった。育ちすぎるほど育つ野菜、庭の隅にちらつく四色の光、人のものではない足跡。俺が「気のせいだ」「運がいいな」と、そのつど棚に上げてきた、たくさんの小さな不思議。
その、ぜんぶの真ん中に、この子が——この、膝の上でモフモフしている苔玉が、いた。
「……そうか。ずっと、いたのか」
俺は、ようやく、ちゃんと息を吐いた。混乱はまだ胸のなかでぐるぐる回っている。回っているけれど、その芯のところが、じんわりとあたたかい。怖くない理由が、なんとなく、わかった気がした。
この子は、ずっと前から、俺の暮らしのなかにいたのだ。見えていなかっただけで。
会社にいた頃の俺なら、こんなもの、一秒だって信じなかっただろう。苔玉が喋る? 精霊? 寝ぼけるのも大概にしろ、と自分で自分を叱りつけて、コーヒーで頭を冷やして、そのまま仕事に戻ったはずだ。
でも、今の俺は、この山で、たくさんの「説明のつかない優しさ」に生かされてきた。だから、素直にうなずける。ああ、そういうことも、あるんだな、と。理屈が追いつかなくても、胸のほうが先に、これを本物だと受け入れていた。
苔玉は、俺が落ち着いてきたのを見てとると、膝の上でもぞもぞと座り直した。露を乗せたモフモフを、朝日にきらきらと光らせながら、まんまるの目を、いっそう嬉しそうに細める。
「あのね、あるじ」
そう言って、この小さな相棒は、種明かしでも始めるみたいに、のんびりと口を開いた。
「ぼくたちね——」




