第45話
森野さんに教わった「魔力のピント」とやらが、あの日からずっと頭の隅に引っかかっていた。
力を抜いて、目の焦点をほんの少し奥へずらす。気配のいる方を、息で感じ取る。言葉にすればたったそれだけのことなのに、いざ一人でやってみると、これがどうにも掴めない。
まあ、こういうのは反復だ。プログラムのバグ取りと一緒で、同じ手順を根気よく繰り返すうちに、ふっと通る瞬間が来る。俺はそう決めて、暮らしの合間に練習を挟むことにした。
朝いちばん、畑に出たついでにやってみる。鍬を土に立てかけ、畝の間にしゃがんで、大きく息を吐いた。
視界の力をゆるめて、焦点を野菜の向こう側へ、すうっと逃がしてやる。トマトの赤も、葉の緑も、輪郭がぼんやり溶けて、世界が滲んだ水彩画みたいになる。
その、滲んだ隅っこで。何かが、ちらりと光った気がした。
はっと目を凝らすと、もう何もない。ただの朝日の照り返しか、寝起きの目の疲れか。
「……気のせい、か」
そう呟いて、俺は自分に苦笑した。そりゃそうだ、そんなにあっさり見えたら世話はない。
昼は台所だった。米を研ぎ、味噌汁の鍋を火にかけながら、立ちのぼる湯気のあたりに、ぼんやり焦点を預けてみる。
この湯気の揺れ方が、どうも一様じゃないのだ。熱で下から押し上げられるだけなら、まっすぐ上がるはずのものが、ときどき、くるりと妙な渦を巻く。
その渦の芯に、ぽっと赤いものが灯った気がして、瞬きした拍子に、ふっと消えた。
「見えそうなんだよなあ、あと一歩で」
俺は玉じゃくしを握ったまま、しばらく湯気とにらめっこしていた。汁が煮立って吹きこぼれ、慌てて我に返る。
思えばこの山に来てから、妙に何もかもが上手く運ぶ。火はよく熾きるし、湯はなかなか冷めないし、探し物はすぐ手元に出てくる。古い家に染みついた暮らしの「癖」みたいなものだと、俺はずっと思っていた。
夜は風呂場で試した。五右衛門風呂にたっぷり湯を張り、灯りを落として、水面に映る天井の影をぼんやり眺める。
湯気でけむった浴室は、昼間より何もかもの輪郭がやわらかい。焦点をずらすには、案外もってこいの場所だった。
湯面のふちで、透きとおった何かが、ぷかりと上下した気がした。水滴の落ちた波紋にしては、その動きに、妙な意思のようなものがあった。
毎度、あと一歩なのだ。輪郭が結ばれかけて、いざ掴もうとした瞬間、するりと逃げていく。
「見えそうで、見えない。もどかしいな、これは」
それでも、手応えは確かにあった。前は「気のせい」の一言で片づけていた視界の隅の光が、練習を重ねるほど、少しずつそこに居座る時間を延ばしている。
最初はまばたき一つで消えたものが、今は二つ三つ数えるあいだ、ちゃんと留まる。形はまだ、ぼんやりした光の粒でしかないけれど、それでも一歩ずつ、近づいている気はした。
◇◇◇
その日の夕暮れ、俺は水やりのために畑へ出た。
西の空がとろりと橙に染まって、畝の土も、野菜の葉も、みんな金色の縁取りをまとっている。一日のうちでいちばん、輪郭のやわらかくなる時間だ。
じょうろを傾けながら、俺はもう癖になった調子で、ふっと焦点を奥へ逃がした。
そのとき。
畝の上に、まんまるで、モフモフした何かが、ちょこんと座っていた。
両手に乗るくらいの、緑の毛玉。つぶらな二つの目が、まっすぐこちらを見上げている。夕日を吸って、ふちが金色に光っていた。
じょうろの水が、俺の足元にばしゃりとこぼれた。
「……今の、何だ」
まばたきを一つ。もう、そこには何もない。ただの畝と、濡れた黒い土があるだけだ。
「苔玉が、動いた……?」
俺は、こぼれた水も気にせず、その畝をじっと見つめていた。心臓が、やけに大きく鳴っていた。
◇◇◇
畝の上で、コロは今にも破裂しそうな胸を、両手でぎゅっと押さえていた。
あるじが、こっちを見ている。ぼんやりとだけど、たしかに、こっちを。あんなにまっすぐな目を向けてもらえたのは、この山に来てもらってから、初めてのことだった。
「み、見えてる……あるじ、もうすぐ、ぼくのこと」
うれしくて、こわくて、つい、うっかり、いつもより姿を濃くしてしまった。いけない、と気づいたときには、あるじの目が、まんまるに見開かれていた。
あわてて、コロはすがたを引っこめる。
「まだ、なの。ちゃんと見えるのは、もうちょっとだけ、あとなの。でも、でも」
もう、待ちきれないんだよぉ。
直売所の屋根の上から、赤いのと、青いのと、渋い顔のが、はらはらとその様子を見守っていた。
「コロ、気が早いぜ」
エンが、尻尾の火をぱちぱち鳴らして笑う。
「でも、お気持ちは分かりますわ」
スイがうっとりと揺れ、モクは腕を組んで、フン、とだけ鼻を鳴らした。
あるじが、自分たちに気づく。その日が、もう指で数えられるところまで来ている。四つの光は、夕暮れの畑で、そろってふるりと高鳴った。




