第44話
増設の相談がひと段落したところで、森野さんは作業台に手をつき、いたずらっぽく目を細めた。
夏の光が高い天窓から斜めに落ちて、木屑の匂いが濃い。蝉の声が遠く、工房の中だけが妙に静かだった。
「コツを教えましょうか。むずかしいことじゃありません」
この人はさっき、俺の山を「良くしてくれてるものたち」がいると言った。半信半疑もいいところだが、これまでの妙な幸運を思うと、聞かずに帰るのも据わりが悪い。
「お願いします。えっと、身構えたほうがいいですか」
「いえ、逆です。力を、抜いてください」
言われるまま、俺は肩の力を抜いた。森野さんはゆっくりと続ける。目の焦点を、見ている物のほんの少しだけ奥へずらすこと。それから、気配のいる方向を、目じゃなく息で感じること。
「息で、感じる……」
「ええ。吸うときに、そちらへ意識を向けるように」
オカルトめいた話だ。ふつうなら眉に唾をつけるところだが、俺の頭は勝手に別の翻訳を始めていた。
なるほど、と腑に落ちる感触がある。要するに、視点を「デフォルト設定」からほんの少しずらして、普段は脳がフィルタして捨てている情報を、あえて拾いに行くわけだ。
「ああ、なんとなく分かります。ピントを固定で合わせにいくんじゃなくて、わざと甘くして、視野の端を拾うっていうか」
「……そうですね。近いと思います」
森野さんが少し驚いた顔をした。俺は構わず理屈を転がす。前の職場で、モニターを凝視しすぎて見落としたバグが、席を立って戻った瞬間に見つかる、というのが何度もあった。凝視は、かえって見えなくする。
「まあ、ヨガとか座禅みたいなもんですかね。力むと逆に見えない、と」
「あなたは、飲み込みが早い」
褒められて、悪い気はしない。俺は言われたとおり、力を抜いて、作業台の隅のあたりへ焦点をゆるく投げてみた。息を吸う。そちらへ、意識を向ける。
最初は、何も。ただの木屑と、鉋くずの山があるだけだ。
けれど、二度、三度と繰り返すうち、視界の端がざわりとした。何かが、そこにいる。いる気がする。見ようと目を凝らした瞬間に、それはすっと逃げていく。凝視は、見えなくする。さっき自分で言ったばかりだ。
「……惜しいですね」
森野さんが静かに笑った。俺のこめかみには、うっすら汗がにじんでいる。集中したつもりが、いつのまにか目を細めて力んでいたらしい。
「もう少し、なんですけど」
「焦らないことです。見えるようになる目は、もう、ちゃんとあなたにありますから」
資格がどうの、と森野さんはさっきも言っていた。俺みたいな、ただ山でのんびり暮らしたいだけの人間に、大げさな話だ。まあ、飲み込みが早いのは昔から、道具の説明書を読むのが得意だっただけで、それ以上でも以下でもない。
結局その日は、あと一歩のところで、何も像を結ばなかった。
「まあ、そういう日もあるか」
礼を言って軽トラに乗り込み、山道を登る。ハンドルを握りながら、俺はさっきの視界の端の、ざわりとした感触を反芻していた。
あと少しで、何かが見えそうだったんだよな。
助手席に置いた新しい材木が、カーブのたびにことりと鳴る。気になって、仕方がない。家に着いたら、もう一回だけ、試してみるか。
◇◇◇
あるじが力を抜いて、目をゆるくするたびに、四つの気配は息をのんでいた。
鉋くずの山のてっぺんで、まんまるの目がきらきらしている。
「あるじ、こっちなの。ぼく、ここにいるよぉ」
のんびりした声で、けれど身を乗り出さんばかりに、コロが呼びかける。半透明のスイは、あるじの視線がこちらへ流れるたび、うれしさに水面をぷるぷると波立たせた。
「あと少し、ですわ。あるじ、もう少しですのに……!」
かまど――ではなく、材木の陰でとぐろを巻いていたエンが、尻尾の火をぱちぱち跳ねさせて飛び出しかけた。
「見えそうだったよな、なあ! あと一歩だぜ!」
「フン。……力んだな。惜しい」
腕を組んだモクだけが渋い顔で言って、それでも羽の先が、こらえきれずに震えている。
長いあいだ、ただそばにいるしかなかった。手を貸しても、喜んでも、気づいてもらえなかった。それが、もう少しで――こちらを、見てもらえる。
軽トラが山道へ消えていく。四つの光は、そのうしろを追いかけるように、そわそわと寄り集まった。
「はやく、あしたにならないかなあ」
コロのつぶやきは、あるじには届かない。届かないけれど、四つの気配は、夕暮れの工房で、揃ってちいさくまたたいた。




