第43話
森野製材所の土間は、外の蝉時雨が嘘のように、ひんやりと静かだった。
積み上がった材のあいだを抜けてくる風が、木の香りを運んでくる。俺は増設する直売所の図面を広げ、必要な板の寸法を森野さんに相談していた。盛夏の白い日差しを、分厚い杉板の壁がやわらかく遮ってくれている。
森野さんは老眼鏡の奥で目を細め、俺の下手な図面をしばらく眺めていた。それから太い指で節のない一枚を選び出す。
「これなら、雨に強い。長く保ちますよ」
迷いのない手つきだった。木のことなら何でも見透かしている、という感じだ。俺は素直に感心して、言われるまま寸法を書き足していく。
話が一段落したとき、森野さんがふと、窓の外へ目をやった。俺の山のある、北の方角だ。
「結城さんの山は、いい山です。……賑やかで」
賑やか、と俺は首をかしげた。あんな山奥で、鳥と虫の声しかしないのに。
「賑やか、ですか。俺しか住んでませんけどね」
そう返すと、森野さんは静かに笑った。板の木口をそっと撫でながら、独り言のような調子で続ける。
「見ようとすれば、見えますよ」
何がです、と訊き返した俺の声が、やけに間抜けに響いた。
森野さんは顔を上げ、まっすぐ俺を見た。おだやかで、それでいて、どこか懐かしいものを見るような目だった。
「あなたの山を、良くしてくれているものたちが。ずっと、あなたのそばにいる」
冗談を言っている顔ではなかった。こちらを担ごうという気配もない。ただ当たり前の事実を口にしただけ、という静けさがあった。
半信半疑、というのが正直なところだ。見えないものが見えるだの、そばにいるだのと言われて、はいそうですかと頷けるほど、俺の頭はやわらかくない。
なのに、なぜだろう。背中を、ぞわりと何かが這い上がった。
脳裏で、この数か月の妙な出来事が、勝手につながりはじめたのだ。初めて焚いたのに素直すぎたかまどの火。翌朝になっても冷めていなかった風呂。足りないと思った瞬間、なぜか手元にあった端材。育ちすぎるほど育つ畑。
一つひとつは、運がよかったで片づけてきた。道具がいい、土がいい、俺の腕が上がった。そう思い込んできた。
それが今、一本の線でつながって、ぞくりと鳥肌が立っている。
まさか、と思う。まさか、そんなわけがない。
なのに、心のどこかが、妙に腑に落ちてしまっている。世話になりっぱなしだった相手に、ようやく名前がつきかけている——そんな、奇妙な納得だった。
と、そのとき。
窓から差し込む光の帯の中で、削りかけの木屑がふわりと舞い上がった。風もないのに、俺の頬をかすめるようにひとしきり踊って、また静かに落ちていく。
「……今の、風ですか」
「さあ。どうでしょうね」
森野さんは、悪戯を隠す子どものような顔で、はぐらかした。俺は木屑の落ちたあたりを、しばらく間抜けに見つめていた。
まあ、風だろう。夏の工房は、木のかけらのひとつやふたつ、勝手に舞うものだ。そう自分に言い聞かせて、頭を切り替える。深く考えたら負けだ、たぶん。
森野さんは、選んだ板を脇へよけると、こちらへ向き直った。
「コツを、教えましょうか」
「コツ?」
「見るための、です。あなたにはもう、その資格がある」
資格、という言葉に、俺は思わず噴き出しそうになった。山を買っただけの元SEに、いったい何の資格があるというのか。
「資格って、大げさですよ。俺、ただの田舎暮らしのおっさん予備軍ですけどね」
軽く受け流したつもりだった。ところが口ではそう言いながら、腹の底では、抑えのきかない好奇心がむくむくと頭をもたげている。
見えるかもしれない。俺の山に、ずっといたらしい「何か」が。
元来、俺は仕組みを知りたがる質だ。動くならなぜ動くのか、効くならどういう理屈で効くのか。得体の知れないものを、得体の知れないまま放っておくのは、どうにも気持ちが悪い。元SEの、これは職業病みたいなものだ。
「……その、コツって。俺にも、できるものなんですか」
気づけば、身を乗り出してそう訊いていた。森野さんは、我が意を得たりとばかりに、目尻の皺を深くする。
「ええ。難しいことは、何も」
蝉の声が、また一段と高くなった。木の匂いの満ちた工房で、俺は知らず知らず、生唾を飲み込んでいた。
◇◇◇
その夜、山の古い家の梁の上で、四つの小さな光が、いつになくそわそわと揺れていた。
「ねえねえ、あるじ、こっち見ようとしてたよぉ。ぼく、わかったの」
苔玉のコロが、まんまるの目をきらきらさせる。昼間、森野の工房で、あるじの気配がぐっとこちらへ近づいた。あんな感じは、初めてだった。
「もうすぐ、ですわ。もうすぐ、あるじにちゃんと見ていただけるんですわ」
水がめの縁で、スイがぷるんと跳ねる。
「へっ、見られたらよ、オレが一番に挨拶してやるんだぜ! かまどはオレに任せろって、な!」
熾火の奥から、エンが得意げに尻尾を振った。その火の粉が、ぱちりと嬉しそうに爆ぜる。
作業台の隅では、モクだけが腕を組んだまま、そっぽを向いている。
「フン。……別に、待ってなどおらん」
そう言いながら、その葉っぱの羽は、隠しきれずに小刻みに震えていた。
長いあいだ、誰にも気づかれずに手を貸してきた。喜ぶ顔を、ただ遠くから見てきた。それが、もうすぐ——。
四つの光は、眠るあるじの家のあちこちで、消えそうなくらい、けれど確かに、あたたかく瞬いていた。




