第42話
製材所の裏手にある材木置き場は、盛夏だというのに、妙にひんやりとしていた。
積み上げられた板と板のあいだを、乾いた風がすっと抜けていく。木の香りが濃くて、深呼吸をするだけで胸のなかまで洗われるようだった。
「増設に使うなら、この辺りがいいでしょう」
森野さんが、樹皮を落とした杉板の山に手を置いた。日に灼けた無骨な指が、木目をなぞるように滑っていく。
俺は隣に並んで、同じ板をのぞき込んだ。正直、俺の目には全部が「まっすぐで、きれいな板」にしか見えない。
「どれも良さそうに見えますけど、違うもんですか」
「違いますよ。ずいぶん」
森野さんは目を細めて笑った。そうして一枚を抜き出し、俺の前に立てて見せる。
「この木はね、山の北側で育ったんです。日当たりが渋いぶん、ゆっくり詰まって育つ。だから、狂いが少ない」
言われて年輪を見ると、たしかに線が細く、みっしりと詰まっている。木のどこで育ったかまで、この人は板を見ただけで言い当てるらしい。
……いや、それはさすがに勘だろう。そう思いかけて、俺は口をつぐんだ。
森野さんが板に触れる手つきが、あんまり静かで、確かだったからだ。値踏みじゃない。旧い友人の肩でも叩くような、そういう触り方だった。
「山ってのは、ぐるぐる巡ってるんですよ」
次の板を選りながら、森野さんが独り言のように言った。
「上のほうに降った雨が、時間をかけて地面にしみて、木の根を通って、また下の沢へ出ていく。木はね、その水の道を、ちゃんと覚えてるんです」
俺は相槌の打ちどころを見失って、ただ黙って聞いていた。話の内容が、というより、その語り口が不思議だった。まるで、木から直接そう聞いてきたみたいに喋る。
元の仕事でいえば、システムの全体像が頭に入りきっている人の口ぶりに近い。どこをいじれば、どこにどう響くか。それが図面じゃなく、体で分かっている感じだ。ただ、森野さんが相手にしているのは、コードじゃなくて山ひとつだった。
「木は、切ってからも生きてるんです」
節を避けて墨を打ちながら、森野さんが続ける。
「湿気を吸って、吐いて、少しずつ動く。その癖まで見越して、どこにどう使うか決めてやる。そうすると、家になってから何十年も、機嫌よくいてくれる」
板を一枚の「材料」としか見ていなかった俺には、それはずいぶん遠い話だった。遠いのに、聞いていると、なぜか背筋が伸びる。
「森野さんは、木の声が聞こえるって口ぶりですね」
軽い冗談のつもりだった。
「聞こうとすれば、聞こえますよ」
森野さんは、まるで当たり前のことみたいに、さらりと返した。
冗談を、冗談として受け取ってもらえなかった。なのに気まずくもなくて、俺はなんだか、狐につままれたような心地になる。
妙な人だ。妙だけれど、嫌な感じはまるでしない。むしろ、こういう浮世離れした人の話を、俺はもっと聞いていたい気がした。
板を車まで運ぶあいだも、森野さんの話は続いた。どの木がどの獣の通り道の目印になっているか。風がどの尾根を越えて里へ降りるか。話の一つひとつに、机上の知識では届かない手ざわりがある。
ふと、森野さんが運ぶ手を止めた。
俺の肩のあたりに、目をやっている。何もないはずの、右肩の上だ。
「その肩の子、ご機嫌ですね」
え、と聞き返す前に、森野さんは「いや」と小さく首を振って、言葉を引っ込めてしまった。
俺は思わず自分の肩を見た。当然、何もない。夏の日差しがちらついているだけだ。
「虫でも、とまってました?」
「……そんなところです」
やわらかくはぐらかされて、俺はそれ以上は聞けなかった。
積み込みが終わって、荷台の縄を締める。額の汗を拭ったところで、森野さんが山のほうへ視線を投げた。俺の買った、あの山の方角だ。
「結城さん」
声の調子が、ふっと変わった。
「あなたも、そろそろ気づいてるでしょう。うちの山に、変な"手伝い"が入ってること」
縄を握った手が、止まった。
変な、手伝い。その一言で、いくつもの光景が勝手に頭のなかで並びはじめる。初めて焚いたかまどの、素直すぎる火。一晩たっても、なぜか冷めていなかった風呂。足りないと思った端材が、朝には妙にちょうどよく、そこにあったこと。
全部、俺は「道具がいい」「運がいい」で片づけてきた。片づけて、深くは考えないようにしてきた。
「……なんで、それを」
声が、少しかすれた。
森野さんは責める顔ではなかった。むしろ、迷子の子どもにようやく行き先を教えるような、静かな微笑みだった。
◇◇◇
材木置き場の板の陰で、小さな光が四つ、身を寄せ合ってそわそわしていた。誠には、まだ見えない。
「ねえねえ、いま、あるじの肩、見られたよぉ」
まんまるの気配が、ふるりと弾んだ。うれしいのと恥ずかしいのとで、丸ごとぷるぷるしている。
「あのお方、わたくしたちのこと、あるじに教えようとしてらっしゃいますわ」
すまし顔の気配が、少し得意げに、けれど頬を染めるみたいに揺れた。
「おいおい、いよいよかよ。オレ、ちゃんと見てもらえんのかな」
赤い気配が、ぱちりと火の粉を散らす。声だけは威勢がいいが、その光は照れたようにちらちらと明滅していた。
「フン。……別に、見られたところで、どうということもないがな」
渋い気配は腕を組むように縮こまって、それでも誠のほうから目を離さない。口ぶりとは裏腹に、羽の先が落ち着きなく震えている。
ずっと、そばにいた。手を貸すたび、飯をうまそうに食う横顔を、こっそり眺めてきた。
その相手が、もうすぐ、こちらを見てくれるかもしれない。
「……ちゃんと、笑ってくれるかなあ」
誰かの小さなつぶやきは、まだ誠には届かない。届かないまま、四つの光は板の陰で、ぎゅっと寄り添っていた。




