第41話
盛夏の日差しが、軽トラのボンネットを容赦なく焼いていた。
直売所は、ありがたいことに今日も棚が空になる。いっそ増設して、ついでに古民家の傷んだ軒も直そうと算段を立てたら、案の定、手持ちの端材ではまるで足りなかった。
いい木が要るなら、あの人のところだ。迷いもせずそう思えるのが、我ながら少しおかしい。前に一度訪ねただけの製材所を、俺はもう「あの人のところ」と呼んでいる。
◇◇◇
川沿いを軽トラで二十分。杉木立の奥にある、看板も出していない製材所は、真夏でもひんやりと涼しかった。
車を降りた途端、切りたての木の匂いに包まれる。青くて甘い、鼻の奥がすっと抜けるような香りだ。何度嗅いでも、この匂いだけは飽きがこない。
作業場には、丸太と挽いた板が、樹種ごとに整然と積まれていた。どれも桟を挟んで風を通してあり、恐ろしく手間をかけて寝かせた木なのだと、素人目にもわかる。ここだけ、外の熱気とは別の時間が流れているようだった。
「やあ、いらっしゃい」
奥から出てきた森野さんは、この暑さのなかでも、涼しい顔をしていた。汗ひとつかいていない。ずっと木陰にでもいたみたいな、静かな佇まいだ。
増設の話をすると、森野さんは目を細めてうなずいた。それから板の山のあいだを、水の道でも辿るように、ゆっくり歩いていく。
「棚を広げるなら、この夏に挽いた杉がちょうどいい。……今年は雨が優しかったので、素直に育ちましたよ」
雨が優しい、なんて言い方があるのか。俺は感心して手帳にメモしかけ、そんな項目は畑の記録帳にもないな、と苦笑した。
勧められた杉に、手のひらを当ててみる。真夏だというのに、木肌はしっとりと冷たく、それでいて芯のほうに、ほのかな温もりが残っている。
鼻を近づけると、甘い香りがいっそう濃くなった。これで棚を組んだら、雨に濡れるたびに、この匂いが立つのだろう。想像しただけで、作業が楽しみになってくる。
「森野さんは、木のことなら、ほんとに何でも知ってるんですね」
「木が、勝手に教えてくれるんですよ。こちらは、耳を澄ませているだけで」
耳を澄ます、か。ずいぶん詩的なことを言う人だ。けれど不思議と、大げさには聞こえなかった。この人が言うと、木が本当にしゃべるような気がしてくる。
補修用の檜も見繕ってもらいながら、森野さんはふと、こんなことを言った。
「いい木を、いい手で組む。……あなたの棚は、きっと長く保ちますよ」
いい手だなんて、買いかぶりだ。俺なんて、説明書とにらめっこしながら、板を切って釘を打っているだけ。褒められるような腕は、どこにもない。
「六十点でヨシ、が俺のモットーですよ」
そう返すと、森野さんはなぜか、少しおかしそうに笑った。
選んでもらった材を、二人で軽トラに積み込む。森野さんが丸太に手を添えると、俺が抱えあぐねるような一本が、まるで木のほうから応えるみたいに、するりと肩へ収まった。力任せではない。長いこと、この木立と連れ添ってきた者だけが知る、扱いのコツなのだろう。
値段は、今日もこの質にしては拍子抜けするほど安かった。律儀に払わせてもらわないと、こっちの気が済まないくらいだ。
「こんなにいい木を、こんな値でいいんですか」
「いい山で使ってもらえるなら、木も本望です」
◇◇◇
積み込みを終えて礼を言うと、森野さんは軒先まで見送りに出てくれた。
それから、ふと顔を上げる。俺の帰る方角——山のある、北の空を。目を細めて、しばらく静かに眺めていた。
風が、木立をさわりと渡っていく。
「たくさん棲んでますね。あなたの山には」
え、と俺は振り向いた。棲む、という言葉に、一瞬きょとんとする。
「獣、ですか? まあ、鹿だのイノシシだのは、そこそこ出ますよ。畑を狙われて往生してます」
防獣ネットの苦労話でもしようかと思ったら、森野さんは小さく首を振った。そうして、いないはずの何かを見るように、やわらかく微笑む。
「……ええ。そんなところです」
そんなところ、って。俺は首をかしげた。獣なのか、獣じゃないのか、どっちなんだ。
けれど森野さんは、それ以上は何も言わない。ただ静かに、俺の山のほうを、慈しむように見つめているだけだった。
「変わった人だよなあ、ほんとに」
軽トラのハンドルを握って、俺は独り言ちる。でも、悪い気はしなかった。
自分の山に「たくさん棲んでる」と言われて、なんだか誇らしいような、くすぐったいような。木の匂いのする荷台を揺らして、俺は山道を登っていった。
◇◇◇
軽トラが土埃を上げて去ったあと、製材所の軒先に、四つの小さな光がそっと残った。今日もあるじにくっついて、ここまでついてきたのだ。
板の山の上で、モクが腕を組んで唸っている。
「フン……あの男。やはり、見えているな。俺たちのことが」
「見えてたの……! ねえ、ちゃんと見えてたの」
コロがまんまるの目を、いっぱいに輝かせて跳ねた。あるじの肩に乗って隠れていたつもりが、あの人には、はじめから筒抜けだったらしい。
「あるじに、教えてくれたんですわ。この山には、わたくしたちがいるって。……あんなにやさしく」
スイが、うれしさに耐えかねて、ぷるぷると身をふるわせる。
「なあ、あるじ、ちょっと首かしげてたよな。もうちょっとだぜ、ぜったい」
エンが尻尾の火を、ぱちりと大きく弾ませた。あるじは「獣か」と笑っていたけれど、あの言葉は、たしかに種火のように残ったはずだ。
いつか、あるじの目にも、自分たちが映る日がくる。もうすぐ、すぐそこまで来ている。
四匹は顔を見合わせ、遠ざかる荷台を追って、ふわりと宙に舞い上がった。木の匂いを乗せた風が、その背中を、そっと山のほうへ押してやった。




