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山を買って古民家スローライフ 〜精霊たちと暮らすDIYな田舎暮らし〜  作者: 猫野いちば


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40/212

第40話

 夕暮れの縁側に腰を下ろして、俺は一日の汗をようやく風に預けた。


 井戸で冷やした麦茶を湯呑みに注ぐ。ひと口飲むと、冷えた甘みが喉の奥へ落ちていって、昼のあいだ首筋にこもっていた熱が、すっと引いていった。


 山の稜線が、金色に縁どられている。畑の向こうから、日暮れのぬるい風がひと吹き、俺の頬を撫でて抜けていった。


 風鈴が、ちりん、と鳴る。


 このところ、日ざしがめっきり強くなった。初夏だと思って油断していたら、いつのまにか蝉の声が幾重にも重なって、昼間はもう、立派な夏の顔をしている。畦を歩けば土が乾いて白く、額の汗がすぐに塩を吹く。


 季節は、こうして俺に断りもなく、次の扉を開けていくらしい。


 膝の上で手を組んで、俺は改めて、目の前の景色を見渡した。


 守り切った畑が、夕日の中で青々と息をしている。三重に囲った柵の内側で、トマトが赤く熟れ、キュウリが重たげに垂れ、トウモロコシが背を伸ばしている。ついこのあいだまで、獣に踏み荒らされて泥だらけだった畝とは、とても思えない。


 その脇には、我ながらよくできた無人直売所。品書きの札まで下げて、夕日にのんびり照らされている。


 この山を初めて登ってきた日のことを、俺はまだ鮮明に覚えている。


 あの頃ここにあったのは、腰まで伸びた雑草と、傾いたボロ棚と、荒れ放題の段々畑だけだった。全財産をはたいた結果がこれかと、貯金通帳とにらめっこして胃を痛めていた、あの頃の自分。


 それが、どうだ。


 畑は実り、柵は敵を退け、直売所は今日も静かに客を迎えている。ただの荒れ山だったこの場所が、いつのまにか、俺の手で守り抜いた「俺の山」になっていた。


 守るものができるというのは、思っていたより、ずっと胸に来るものだった。


「……たった数ヶ月で、ずいぶん逞しくなったもんだ」


 声に出して、俺は苦笑した。


 電気柵を張り、罠を組み、猿と知恵比べをして、しまいには山みたいにでかい猪と真夜中に対決した。振り返れば、我ながらよくやったものだ。


「獣と知恵比べする日が来るなんて、SE時代の俺は想像もしなかったよ」


 あの頃の俺は、蛍光灯の下でモニターとにらめっこして、締め切りとバグに追われて、朝起きると顎が痛かった。牙をもった相手と畑を賭けて渡り合うなんて、そんな生々しい話は、どのマニュアルにも載っていなかった。


 なのに、いざやってみれば、案外できてしまう。要件を洗い出して、敵の動きを読んで、仕掛けを組んで、直して、また試す。やっていることの芯は、昔の仕事と、そう変わらなかった。人生、何が武器になるか、本当にわからない。


 板張りに映る自分の影を見て、俺はふと、鏡のことを思い出した。


 この頃、顔つきが変わったと思う。眉間の縦じわが消えて、肩の力が抜けた。会社にいた頃の、笑い方を忘れたみたいな顔とは、たぶん別人だ。


 獣に畑を荒らされて、それでも腹を立てるより先に「さあ、どう守るか」と燃えている今の俺を見たら、あの頃の俺はきっと目を丸くするだろう。おまえ、そんな顔で笑うやつだったのか、と。


 麦茶を飲み干して、俺は目を細めた。


 庭の隅に、いつのまにか、小さな光が四つ灯っている。赤、青、緑、それに淡い土色。蛍にしては色が違うそれが、夕闇の中で、ぽつ、ぽつ、と揺れながら、俺のほうをそっと窺っている。


 もう、驚かなくなった。むしろ、いるのが当たり前になっている自分がいる。


「今日も、いるんだな。おまえたち」


 光は、返事のように、ふわりと明るさを増した。


◇◇◇


 同じ夕暮れを、遠い遠い場所の空も分け合っていた。


 痩せた土地と魔獣の脅威に、長く苦しめられてきた辺境のネル村。その村外れの辻に建つ小さな石の祠の前に、行商の若者ガロが膝をついている。


 供物台には、村の畑では決して育たぬ瑞々しい野菜が、今日も山と積まれていた。赤く艶めいた実、腐ることを知らぬ力に満ちた葉。ガロはそれを、いつものように恭しく籠へ移していく。


 この数ヶ月で、村はすっかり変わった。


 祠に現れた鋼の神具を仕掛けるようになってから、あれほど恐ろしかった魔獣が、畑へ寄りつかなくなった。夜、牙の影に怯えて眠れぬ夜も、もうない。村人たちは久しぶりに、安んじて土を耕せるようになっていた。


 畑には、耕す鍬の音が戻った。井戸端には、洗い物をする女たちの笑い声が戻った。そして何より——


 辻の向こうの広場で、子どもたちが甲高い声をあげて走り回っている。飢えて頬のこけていた、あの子らが。


 ガロは籠を脇に置き、その声にしばし耳を澄ませてから、祠に向かって深く頭を垂れた。


「祠の主さま。村に、子どもの笑い声が戻りました」


 その声は、震えるほどに切実だった。


 どこの、どんなお方かも知らない。姿を見たこともない。ただ、この祠を通して、糧を、そして魔を退ける力を、絶えることなく授けてくださる、遠い主さま。


「どうか——どうか、この縁が、末永く続きますように」


 ガロは長いこと、そのまま手を合わせていた。


 その恵みと神具を祠に置いた張本人が、山ひとつ向こうの縁側で、冷えた麦茶をすすりながら「逞しくなったもんだ」とのんきに笑っている、ただの少し疲れの抜けた元会社員だとは。


 ネル村の誰ひとりとして、知る由もなかった。


◇◇◇


 蝉の声が、ひときわ大きくなった。


 湯呑みを置いて、俺は庭の直売所へ足を向けた。夕方のうちに翌朝ぶんの野菜を並べておくのが、この頃の日課だ。


 もいだばかりのトマトとナス、それに昨日仕込んだ浅漬けを少し。棚に並べて、料金箱の蓋を開ける。


 中を覗いて、俺は思わず苦笑した。


 また、増えている。見慣れないコインが幾枚も、艶やかな細工の毛皮まで一緒に。夜になるとほのかに光る、あの妙にきれいな石まで交じっている。溜まりに溜まって、うちの小物入れは、もうとっくに満杯だ。


「相変わらず、律儀なお客さんたちだ」


 顔も名前も知らないまま、毎回きっちり対価を置いて、黙って野菜と罠を持っていく。この山奥まで通ってくれる物好きが、この夏、確かに増えている。


 俺はただ、好きに畑を作って、余った分を並べて、獣から自分の暮らしを守っているだけだ。それなのに、顔の見えない誰かが、こんなにも喜んで通ってくれる。


「俺は、うまく共存する方法を工夫してるだけなんだけどな」


 棚の札を直しながら、ひとりごちる。


「なんでか、それが妙に喜ばれてる気がするんだよ」


 会社にいた頃は、あんなに必死で働いても、自分の仕事が誰の役に立っているのか、最後までわからなかった。それに比べれば、この暮らしは、ずっと手触りがある。


 棚を離れようとして、俺はふと、足を止めた。


 棚の脇に、また、あの読めない文字の手紙が一枚、そっと添えられている。見たこともない字が、几帳面に並んでいる。読めはしないが、なぜだろう、そこから溢れてくるものだけは、はっきりと伝わってくる。


「なんか……感謝されてる気がするんだよな、これ。読めないのが、もどかしいけど」


 手紙をそっと胸ポケットにしまって、俺は暮れていく空を見上げた。


 庭の隅では、四つの光が、いつのまにか俺のすぐ足もとまで寄り集まってきていた。作業する俺に、そっと付き添うように。


 濃くなる一方の気配。増える光。日ごとに豪華になっていく対価。読めない、けれど温かい手紙。


 もう、気のせいだと言い張るには、いろいろと積もりすぎている。


「この山、やっぱり何かある」


 風鈴が、ちりん、と鳴った。


 俺は足もとの四つの光を見下ろして、静かに笑った。


「気のせいじゃ、片付けられなくなってきたな」


 数ヶ月前、ただの荒れ山を博打で買った男が、獣と知恵比べをして、いつのまにか、顔も知らない常連と、正体不明の光に囲まれている。我ながら、ずいぶん賑やかな暮らしになったものだ。


「……そろそろ、その〝何か〟の正体を、ちゃんと知りたいな」


 光がひとつ、返事のように、ふわりと揺れた。


 盛夏の気配をはらんだぬるい風が、畑を渡って、俺の頬を撫でていく。守り切った山の上で、俺はもう一度、暮れなずむ空を見上げた。


◇◇◇


 風鈴の音が消えたあと、直売所の屋根のふちで、四つの光がちんまりと寄り集まっていた。


「見たかよ、あるじ、〝そろそろ正体を知りたい〟だってさ! あとちょっとなんだぜ、あとちょっと!」


 エンが尻尾の火を、ぱちぱちと得意げに躍らせる。獣に畑を荒らされたあの夜、四匹は誠のそばで、必死に土を励まし、水を澄ませ、風を送った。守り抜いたのは、あるじひとりの手柄じゃない。一緒に、この山を守ったのだ。


「あるじと、いっしょにまもれたの。……えへへ、ほこらしいなの」


「ええ。この山はもう、ただの荒れ山ではありませんわ。あるじの、守るべき誠の場所ですもの」


 コロが苔玉の身をぷるんと弾ませ、スイが誇らしげに胸をそらす。モクは腕を組んだまま、フン、と鼻を鳴らした。けれど、その渋い顔は、隠しきれないほどやわらいでいる。


 もうすぐ、あるじはこっちに気づく。読めない手紙に、日ごと濃くなる気配に、増えていく光に。ちゃんと、気づいてくれる。


「……フン。気づいたら、いったいどんな顔をするんだか」


 言いながら、モクの声は、どこか弾んでいた。


 四つの光は、暮れゆく山の上でそっと寄り添い、明るく瞬いた。次の季節に待っている〝出会い〟を、今か今かと待ちわびながら。


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あとがき


ここまでお読みいただきありがとうございます!!

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新作の準備なども進めているので、作者のフォローもしていただけると幸いです!!

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