第39話
このところ、視界の隅で何かがちらつく。
台所で洗い物をしていて、ふっと横を向く。誰もいない。畑で腰を伸ばして、畝の向こうに目をやる。やっぱり、何もいない。それなのに、たしかに今、視界の端で何かが動いた気がするのだ。
最初は、目の疲れかと思っていた。長年パソコンとにらめっこしてきた身だ。飛蚊症の類が出てもおかしくない歳になった、と。
だが、どうも違う。
風呂を焚いていても、焚き火のそばで芋を転がしていても、それは起きる。しかも決まって、俺が何か手を動かしているときだ。振り向けば消える。目を凝らせば、ただの夕闇か、揺れる草があるだけ。
昨日の夕方など、かまどで飯を炊いていて、はっきりと、火の脇に赤い揺らめきを見た。薪の爆ぜた火の粉かと思ったが、火の粉なら、すぐ灰になって落ちる。あれは、灯りっぱなしで、しばらくそこに留まっていた。まるで、火の様子を見物でもしているみたいに。
「気のせい、にしては……多いんだよなあ、最近」
湯呑みを片手に、俺は縁側で首をひねった。
猫でも住みついたか、と一度は疑った。この山なら、野良の一匹や二匹いてもおかしくない。虫の見間違い、という線もある。初夏の庭は、羽虫がやたらと飛ぶ。
だが、猫にしては足音がしない。虫にしては、動きに妙な「間」がある。こちらの様子を窺って、そっと身を引くような——
「いや、待て。虫がこっちを窺うわけ、ないだろ」
自分で言って、自分で噴き出した。考えすぎだ。山暮らしが長くなって、とうとう気配に敏感になりすぎたか。
それでも、と俺は思う。
この感じは、猫でも虫でもない気がする。もっと、こう、「意思」のようなものがあるのだ。そこにいて、俺を見て、何かを面白がっている。そういう手触りが、たしかにある。
だいたい、猫や虫なら、餌のあるところに寄るはずだ。だが、こいつらが現れるのは、決まって俺の手元のほうだった。飯を炊く火、研ぎかけの刃、削りかけの木。餌でも縄張りでもなく、俺の「仕事」そのものを覗きに来ている。そんな気がしてならない。
◇◇◇
妙なのは、数まで数えられるようになってきたことだった。
最初はただ「何か」だった。それがいつからか「何か、いくつか」になり、この頃では、はっきりと「四つ」だと感じるようになっている。
台所の隅にひとつ。畑の畝にひとつ。焚き火のそばにひとつ。水場のあたりにひとつ。持ち場でもあるみたいに、それぞれの居場所が、なんとなく決まっているのだ。
「四つ……なんで四つなんだ」
指を折って数えてみて、俺は苦笑した。幽霊の話なら一体で十分だろうに、うちのは律儀に四体そろっている。しかも、こわくない。それが、いちばん妙な話だった。
むしろ、賑やかで、悪くない。
考えてみれば、この山に来てからずっとそうだ。直売所には顔も知らない常連がつき、庭には形の違う足跡が増え、夜には色とりどりの光が灯る。俺はただ、好きに暮らしているだけなのに。
「なんでか、やたらと構われてるよな、俺」
まあ、悪い気はしないんだけどな。
◇◇◇
その夜のことだった。
涼しくなってから、俺は庭に出て、傷んだ鍬の柄をすげ替えていた。ランタンの明かりを頼りに、新しい柄を差し込み、楔を打ち込む。とん、とん、と乾いた音が、夜の山に転がっていく。
ふと、手元が明るい気がして、顔を上げた。
光っていた。
庭の地面すれすれに、小さな光が四つ。赤いのがひとつ、澄んだ青がひとつ、若葉みたいな緑がひとつ、それから、土をそのまま灯したような色がひとつ。蛍の黄緑とは、まるで違う。
その四つが、ふわ、ふわ、と高さを変えながら、鍬をいじる俺のまわりに、そっと寄り集まってくる。
赤いのは、俺の手元を覗き込むみたいに。青いのは、少し離れて水桶のそばに。緑と土色のは、柄に使った木の切れ端に、寄り添うように。
俺は、金槌を握ったまま、動けなかった。
「……やっぱり、いる」
声が、我ながら掠れていた。
「何か、四ついる。蛍じゃ、ないよな、これは」
光は、逃げなかった。消えもしなかった。ただ、俺の手仕事を、じっと見守るように、そこで静かに揺れている。
こわくはなかった。それどころか、胸の奥が、なんだかくすぐったい。
俺はもう一度、楔に金槌を当てた。とん、と鳴らすと、四つの光が、嬉しそうに、ふるりと瞬いた——気がした。
◇◇◇
とん、という音が止んでも、四つの光は、あるじの手元から離れられずにいた。
「あるじ、いま『四ついる』って、かぞえてくれたの……! うれしくて、もう、じっとしてられないなの」
苔玉のコロが、木の切れ端の上でぷるぷると弾んだ。かぞえてもらえた。それだけのことが、こんなにも胸を熱くする。
「わたくしたち、また近づきすぎですわ。……でも、あと少しだけ」
スイが水桶の縁で、うっとりと身を揺らす。あるじの声が掠れていたのが、なんだか、とても愛おしかった。
「なあ、こんどこそバレそうだったぜ! あぶねぇ、あぶねぇ! ……でもちょっと、バレてほしかったかもな」
エンが尻尾の火をぱちぱちと爆ぜさせ、それからしゅんと縮こまった。まだ姿を見せてはいけない。そのときは、もっと先なのだ。分かってはいるけれど、あるじがこんなに近くまで来てくれたら、じっとなんて、していられなかった。
「……フン。もうすぐ、だな」
鍬の柄の上で、モクがぼそりと呟いた。あるじの目が、あと一歩でこちらを捉えそうで、捉えられない。もどかしくて、幸せで、胸のあたりがきゅうっとなる。
声は、まだ届かない。姿も、まだ見えない。それでも四つの光は、確かに感じていた。あるじが、もうすぐ自分たちに気づく。その予感に、四色の光は、揃ってふるりと高鳴った。




