第38話
朝の見回りを終えて畑に立つと、思わず口の端がゆるんだ。
三重の柵に守られた段々畑が、目に痛いほど青々と茂っている。獣に踏み荒らされ、大猪に半分を潰されかけた、あの畑だ。それが今、実の重みで枝葉をたわませ、朝露をきらきらまとって、俺の帰りを待つように立っている。
トマトは房ごと赤く熟れ、ナスは黒紫の艶を張って、キュウリは指ほどもある実を惜しげもなくぶら下げている。
守り切った畑の収穫は、格別だった。
籠を提げてしゃがみ込み、一つずつ手でもいでいく。ただ採るのと、守り抜いた末に採るのとでは、指先に伝わる重みまで違う気がする。理屈で言えば同じ野菜のはずなのに、妙にありがたく感じてしまう。
「よく実ってくれたなあ。えらいぞ、お前たち」
誰に聞かせるでもなく、俺は畝に向かってねぎらいの言葉をかけていた。
考えてみれば、この山に来た頃は、雑草に埋もれた大根とネギを持て余していただけだった。それが今や、電気柵を張り、罠を仕込み、大猪と知恵比べまでして守り抜く畑になっている。人生、どこで何が育つかわからないものだ。
籠はあっという間に山盛りになった。もう一往復。それでも採りきれない。
嬉しい悲鳴とは、まさにこのことだ。
◇◇◇
採れすぎたぶんは、腐らせるより先に手を打つ。土間に籠を並べ、俺は保存食の仕込みにとりかかった。
キュウリとナスは塩でもんで浅漬けに。トマトは湯むきして瓶に詰め、いつでも煮込みに使えるようにしておく。細く切った野菜は、ざるに広げて軒下に吊るし、夏の日差しでからからに干していく。
この段取りは、この前、一度覚えたやり方の焼き直しだ。一度手が覚えた仕事は、二度目からがめっぽう早い。塩の量も、干す時間の見当も、指と鼻がだいたい覚えている。
包丁を動かすたび、みずみずしい断面から青い匂いが立ちのぼる。塩をふれば水がにじみ、しばらくすると野菜がしんなりと角を落としていく。この、素材が言うことをきいていく手応えが、なかなかに気持ちいい。
ただ、うちの保存食は、我ながら出来がよすぎる気もする。
先に仕込んだ漬物樽の蓋を開けると、ちょうどいい塩梅に発酵が進んで、鼻をくすぐる酸味がふわりと立った。冷暗所に置いた野菜も、いつまでも張りを失わず、しなびる気配がない。
「うちの土間、よっぽど涼しいのかな。ものが長持ちして助かるよ」
首をかしげつつ、俺は樽の縁を布巾で拭く。そのあいだも、台所の隅の空気が、なんだか妙にひんやりと澄んでいる気がした。気のせいだろう。夏場にこれだけ日持ちがいいなら、文句を言う筋合いはない。
瓶を並べ、ざるを吊るし、樽を仕込み終える頃には、土間の棚がずいぶん賑やかになっていた。
冬までこいつらに助けられるのかと思うと、なんだか頼もしい。
◇◇◇
仕込みを終え、俺は残った野菜を抱えて庭の直売所へ向かった。
もぎたてのトマトとナス、それに干し野菜と浅漬けを少し。棚に並べて、料金箱の蓋を開ける。
中を覗いて、俺はまた苦笑してしまった。
増えている。それも、種類が増えている。見慣れた金色のコインに、艶やかな細工物、夜にほのかに光る不思議な石、それに手触りのいい毛皮まで。まるで違う人が、めいめい違うものを置いていったみたいに。
「相変わらず、律儀なお客さんたちだ」
毎回きっちり対価を置いて、黙って品を持っていく。顔も名前も知らないまま続く、この静かなやりとりが、いつのまにか俺の暮らしの一番あたたかい一部になっていた。
それにしても、と俺は箱の中を指でかき混ぜる。
置かれるものが、日ごとに豪華になっていく。種類も、目に見えて増えている。一人や二人の物好きが通っているにしては、どうも品数が多すぎやしないか。
「常連さん、もう何人いるんだろうな」
空になった棚を眺めて、俺はぽつりと呟いた。
「顔も知らないけど、みんな律儀で、いい人たちだ」
棚を離れ、俺はぐるりと自分の山を見渡した。
買った頃はただの荒れ山で、ただ住む場所でしかなかった。それが獣と渡り合い、畑を守り、こうして実りを分け合ううちに、いつのまにか「守るべき、自分の場所」に変わっている。
守るものがあるというのは、思っていた以上に、張り合いのあるものだった。
風がひと吹き、畑の青い匂いを運んできて、俺の頬を撫でて抜けていった。
◇◇◇
その日の夕方。誠が母屋へ引っ込んだあと、畑の畝のあいだで、まんまるな目の苔玉がころんと弾んだ。
土と植物の精霊、コロだ。
「あるじ、いっぱい採れたねぇ。コロ、がんばって土をふかふかにしたの」
獣に踏まれ、大猪に潰されかけた畑を、あるじが守り抜いたから、コロも根の先まで力を分けてやった。実がぷりぷりに太ったのは、その甲斐あってのこと。
と、土間のほうから、涼しげな声がした。
「わたくしの働きもお忘れなく、ですわ。漬物のお味も、日持ちのよさも、ぜんぶわたくしが水を澄ませてさしあげたのですから」
水と浄化の精霊スイが、樽の縁でぷかぷかと胸を張る。あるじは「土間が涼しいのかな」なんて首をかしげていたけれど、あの澄んだ冷気は、まぎれもなくスイの仕事だった。
「ふたりとも、えらいの!」
「ふふ。守り切った畑ですもの、実りが格別なのは当然ですわ」
柱の陰でも、かまどのそばでも、名もない小さな光がうれしそうに瞬いている。四匹そろって守り抜いた実りを、みんなで静かに喜んでいた。




