第37話
嵐が過ぎ去ったような数日を経て、山はまた、いつもの静かな朝に戻っていた。
畑の再建も、壊れた仕掛けの修理も、ひととおり片がついた。俺は鍬を肩に立てかけて、朝露のひいた斜面を、ゆっくりと見渡した。
この初夏、ずいぶん色々あったものだ。掘り返された畝、なぎ倒された支柱、賢い猿との知恵比べ、しまいには山の主みたいな大猪まで。都会のデスクにしがみついていた頃には、想像もしなかった騒動の連続だった。
腹を立てた日も、正直あった。丹精した畑を荒らされれば、そりゃあ誰だってくる。
けれど、こうして落ち着いて山を眺めていると、あの時の腹立ちは、もうどこかへ抜けていた。
考えてみれば、当たり前の話なんだよな。
この山には、俺が来るずっと前から、猪も猿も、獣たちが暮らしていた。彼らにとっては、ここが台所で、寝床で、通り道だ。
そこへ、俺があとからやってきた。山を借りて、勝手に畑を作って、うまそうな野菜を並べている。
腹を空かせた獣が、匂いにつられて寄ってくるのは、むしろ道理というものだろう。
「俺があとから山を借りて、勝手に畑を作ってるんだ。獣を憎むのは、筋が違うよな」
鍬の柄を撫でながら、俺は独りごちた。
「憎むんじゃなくて、住み分ければいい。それだけの話だ」
そう思うと、この夏こしらえた仕掛けの数々が、急に別のものに見えてきた。
電気柵も、箱罠も、囲いのネットも、俺は「敵を止める防衛ライン」のつもりで組んでいた。守るか、守られるか。畑を渡すか、渡さないか。
でも、そうじゃないんだよな。
あれは、境界線だ。ここから先は俺の畑、ここから奥は獣たちの山。お互いの領分を分ける、線引きなんだ。
そう腑に落ちると、仕掛けの直し方まで、自然と変わってきた。
罠は、獣を痛めつけて追い払うためじゃない。畑の匂いを奥まで届かせないための「仕切り」として、置き直す。柵の外には、拾い集めたどんぐりや、余った屑野菜を少しだけ寄せておく。ここまで来れば十分だろう、と言わんばかりに。
板を切り、番線を締め直す手が、今日はやけに素直に動いた。継ぎ手がぴたりと決まり、材の寸法も過不足なく足りる。
「今日は、道具の乗りがいいな」
いい仕事ができると、気分までいい。昔から、そういうものだ。
線を引き直しながら、俺はふと、おかしくなった。
敵と戦っているつもりが、いつのまにか、獣と喧嘩しない方法ばかり工夫している。
「俺はただ、うまく共存する方法を工夫してるだけなんだけどな」
乾いた土に膝をついて、俺は苦笑した。
「なんでか、それが妙に喜ばれてる気がする」
◇◇◇
仕掛けをひととおり直し終えた頃には、日がだいぶ高くなっていた。
せっかくだから、と俺は畑でいちばん出来のいい野菜を籠にとった。真っ赤に熟れたトマト、艶のいいナス、ずしりと重いトウモロコシ。この夏、獣と分け合いながら、それでも守り抜いた実りだ。
棚に並べながら、山への礼のつもりで、いちばんいいのを選んでいく。恵みも、脅威も、全部ひっくるめての、この山だ。だったら、感謝くらいは、しておきたい。
それから、作り直した罠をひとつ、棚の隅にそっと添えた。
「棲み分けの境界線」として組み直した、改良版だ。獣を傷つけない、けれど畑はちゃんと守れる。我ながら、いい落としどころに仕上がったと思う。
「要る人がいたら、使ってくれ。……いないか、こんなもの」
言ってから、俺は自分でおかしくなった。野菜はともかく、手作りの罠を欲しがる客なんて、いるわけが——。
いや。
この直売所には、野菜のかわりに毛皮や石を置いていく、とびきり変わった常連がいるんだった。あの人たちなら、案外、喜ぶかもしれない。
◇◇◇
翌朝。
顔を洗いに出た俺は、直売所の前で足を止めた。
とびきりの野菜も、隅に添えた罠も、きれいさっぱり消えている。かわりに料金箱には、これまででいちばん立派な毛皮と、淡く光る石が、山と積まれていた。
その上に、読めない文字の書きつけが、一枚。
何と書いてあるのかは、さっぱりわからない。それでも、丁寧に折り目のついた紙からは、なんとなく、うれしそうな気配だけが、はっきりと伝わってくる。
「……よっぽど、気に入ってもらえたらしいな」
俺は書きつけをそっと料金箱の底に戻して、朝の空を見上げた。
俺は山を借りて、獣と住み分けて、うまい野菜を作っているだけだ。守り方を、ほんの少し工夫しただけ。
それが、なぜか、どこかの誰かの役に立っているらしい。ありがたい話じゃないか。
風が畑を撫でて、青い匂いが立ちのぼる。今日も、いい一日になりそうだった。




