第36話
嵐が去ったあとの海というのは、たぶんこんな顔をしているんだろう。
朝の畑に立って、俺はしばらく動けなかった。昨夜まであれほど張り詰めていた空気が、今はすっかり抜けて、ただ静かに朝日が畝を照らしている。まるで、ゆうべの騒ぎなんて最初からなかったみたいに。
とはいえ、被害の跡は正直だ。
半分ほどの畝が掘り返され、支柱はへし折れ、緩衝材を巻いた捕獲柵は片側の丸太がずれている。あの山の主が力任せに暴れた痕は、朝の光の下で見ると、かえって生々しい。
「まあ、そうだよな。あれだけの相手だったんだ」
俺は腕をまくって、深く息を吸った。焦る気持ちは、不思議と湧いてこない。守り切ったあとの片付けというのは、負け戦の後始末とは、まるで手触りが違うものらしい。
まずは、折れた支柱を引き抜くことから始めた。
地面から一本ずつ抜いて、まだ使えるものと駄目なものを脇に分けていく。倒れたトマトの株を起こし、添え木を当て、麻紐で八の字に結わえ直す。ひとつ、またひとつ。散らかった現場が、手を動かしたぶんだけ、静かに元の形を取り戻していく。
この、目に見えて片付いていく感じが、たまらない。
前の職場では、どれだけ残業しても、翌朝には昨日より仕事が増えていた。賽の河原みたいな日々だった。それに比べれば、抜いた支柱の分だけ確実に前へ進むこの仕事は、なんて正直で気持ちがいいんだろう。
◇◇◇
昼前には、壊れた仕掛けの修理に取りかかった。
ずれた捕獲柵の丸太を、てこを使ってじりじりと元の位置へ戻す。番線を張り直し、外れた蝶番を締め直す。強度計算をやり直しながら、力のかかる方向に添え木を一本足しておく。同じ壊れ方は、二度させない。
「なるほど、ここが甘かったか。……次はもう少し、七十点を狙えるな」
自分の設計の穴が見えてくると、なぜか少し楽しくなってくる。敵が明確な課題というのは、やっぱり性に合っているらしい。
手を動かしながら、俺はぽつりと畑に声をかけていた。
「よく耐えたな、俺の畑。お前も、俺も」
誰に聞かせるでもない。ただ、そう言いたかった。手をかけて起こした土と、その上で踏ん張った自分を、少しだけねぎらってやりたかったのだ。
ひと区切りついたところで、縁側に腰を下ろして麦茶を飲んだ。
井戸で冷やした麦茶が、汗をかいた喉をするりと滑り落ちていく。畑の向こうから、初夏のぬるい風がひと吹き、汗ばんだ首筋を撫でて抜けていった。遠くで、ひぐらしが鳴きはじめている。守り切った山は、今日はやけに穏やかな顔をしていた。
午後は、掘り返された畝を直し、抜けてしまった苗を植え替えた。
鍬で土をならし、根を傷めないよう、そっと苗を据えていく。指先に触れる土は、湿って柔らかく、まだ夜の冷たさをどこかに残していた。半分諦めていた株も、案外しっかり根が残っているものが多い。全部が全部、駄目になったわけじゃなかったらしい。
◇◇◇
夕方、水をやりに畑へ戻って、俺は思わず手を止めた。
昼に植え替えたばかりの苗が、もう、しゃんと立っている。それどころか、踏み荒らされて土が剥き出しだった畝まで、うっすらと下草が芽吹きはじめていた。
「早いな……いくらなんでも、早すぎないか」
しゃがんで、葉に触れてみる。萎れる気配もない。この畑の土は、どうしてこう、打たれ強いのか。植えたそばから根づいて、青々としてしまう。
「お前ら、本当にたくましいな。俺が世話してるのか、世話されてるのか、わからなくなってくる」
まあ、育ってくれるなら、文句はない。俺は苦笑して、如雨露の水を根元へそそいだ。
ひと通り片付けが済んで、直売所へ足を向ける。
料金箱の蓋を開けて、俺はまた、目を丸くした。これまでで一番立派な毛皮と、艶やかな魔石。その上に、見慣れない一枚の紙が添えられている。
拾い上げて、陽にかざしてみた。
丁寧な字で、びっしりと何かが綴られている。けれど、その文字がまるで読めない。日本語でも、俺の知るどこの国の言葉でもない、見たこともない形の文字だった。
「手紙……だよな、これ。どこの国の字だろう」
意味はひとつもわからない。それでも、一字一字の丁寧さから、書いた人の気持ちみたいなものだけが、なぜか伝わってくる気がした。
「なんか……感謝されてる気がするんだよな、この手紙。読めないのが、もどかしいけど」
暮れていく畑を背に、俺は紙をそっと畳んで、胸のポケットにしまった。読めないなら、いつか読めるようになればいい。それまで、大事にとっておこう。
◇◇◇
誠が家に引っ込んだあと、月あかりの畝のあいだを、両手大の苔玉がころころと転がっていた。
土と植物の精霊、コロだ。目をまんまるにして、掘り返された土のうえにぺたりと座りこむ。
「いたかったねぇ。もう、だいじょうぶなの」
ゆうべの大きなけものは、こわかった。土がめくれて、根っこがちぎれて、畑がしくしく泣いていた。だからコロは、朝からずっと畝に寄りそって、傷んだ土をあたためて、ちぎれた根をそうっとつないでいたのだ。
「げんきに、なあれ。ぷりぷりに、なあれ」
小さな手で土をなでるたび、萎れかけた苗がしゃんと背を伸ばす。剥き出しだった畝に、うっすら下草が芽吹いていく。
あるじは「打たれ強いな」って、目を丸くしていた。ちがうのに。でも、うれしそうだったから、コロもうれしいなの。
あるじも、ゆうべはいっぱい踏んばった。畑も、あるじも、よくがんばったねぇ。
「あしたも、いっしょなの」
誠には届かない声。届かないけれど、夜露をふくんだ土が、ほんのり、あたたかく息をした。




