第35話
その夜、俺は寝間着のまま縁側に陣取って、闇に沈んだ畑をじっと見張っていた。
部屋の明かりは落としてある。手元には懐中電灯と、もしものときのための鍋の蓋。膝の上で手を組んでいるのに、手のひらがじっとりと汗ばんでいた。
仕掛けは、昨日のうちに組み終えた。丸太を二重に打ち込んだ補強柵、獣の進路を絞り込む誘導の導線、緩衝材をたっぷり敷き詰めた捕獲柵。図面は頭に焼き付いている。あとは、あいつが来るかどうか、それだけだった。
待つというのは、働くより肩が凝る。
虫の声を数えるともなく数えながら、俺は何度も同じことを考えた。来なければ、それはそれでいい。畑が無事なら、今夜の仕込みは無駄骨で万々歳だ。そう思うそばから、どこかで、来い、と身構えている自分もいる。我ながら、勝手なものだ。
どれくらい経った頃だろう。
ふいに、あれほど賑やかだった虫の声が、ぴたりとやんだ。
闇の奥で、地面が、どん、と重く鳴った。
来た。
俺は息を殺して、懐中電灯を握り直した。畑の向こう、山際の暗がりから、山そのものが一部剥がれて動き出したような、途方もない影がぬっと現れる。牙は湾曲し、背は俺の腰よりずっと高い。昼間、遠目に見たときよりも、闇の中のそいつは倍も大きく見えた。
「でかい。やっぱり、でかいな」
思わず、声がかすれた。
だが、震えている場合ではない。仕掛けは、あいつがまっすぐ畑へ突っ込む前提で組んである。俺の仕事は、設計どおりに事が運ぶのを、ただ見届けることだ。
大猪が、鼻先を地につけ、畑の匂いを嗅いだ。そして——低く唸り、まっすぐに突進してきた。
最初の丸太柵に、轟音がぶつかった。
どぐしゃ、という凄まじい音。並の柵なら、ひとたまりもなかっただろう。だが、二重に組んで筋交いを入れた丸太は、みしりと軋みながらも、崩れなかった。渾身の体当たりが、丸太に受け止められて、ぐにゃりと逸れる。
行き場を失った巨体が、柵に沿ってたたらを踏んだ。
「そうだ、そっちだ。左に流れろ」
俺は暗がりで拳を握った。逸れた進路の先には、誘導の導線が待ち構えている。畑へは行かせない。行けるのは、絞り込んだ一本道だけだ。
大猪は苛立ったように鼻を鳴らし、開いているように見える一方へ——つまり、俺がわざと開けておいた一本道へと、鼻先を突っ込んだ。読みどおりだった。
第一工程、クリア。
……いや、なんで俺は害獣退治で工程管理をしてるんだ。
胸の内で自分に突っ込みつつ、俺は次の合図を待った。導線の途中には、空き缶と番線でこしらえた鳴子と、電池式の作業灯を仕込んである。獣が踏み板を踏めば、けたたましい音と光が一斉に炸裂する寸法だ。
巨体が、その一点を踏んだ。
じゃらじゃらんっ、と缶が乱れ打ち、作業灯が真っ白な光を叩きつけた。
闇に慣れきった大猪の目には、それは雷が落ちたも同然だったらしい。ぶもおっ、と悲鳴じみた声を上げて、巨体が跳ね上がる。牙を振り、蹄で土を蹴散らし、我を忘れて暴れ回った。
だが、暴れれば暴れるほど、絞り込まれた道は、そいつを一方へと追い立てていく。
最後の捕獲柵が、もう目の前だった。
勢い余った大猪が、緩衝材を敷き詰めた柵の懐へ、頭から突っ込んでいく。丸太と縄と、たっぷりの藁束が、その巨体をずぶりと受け止めた。傷つけないための、やわらかい檻だ。ぎゅう、と全身がめり込んで——一瞬、あれほど暴れていた巨体の動きが、ぴたりと封じられた。
やった。
思わず腰を浮かせかけて、俺はすぐに気を引き締めた。まだだ。むしろ、ここからが本番なのだ。
この仕掛けは、あいつを閉じ込めておく檻じゃない。畑から引き剥がして、山へ帰す、ただの通り道だ。捕獲柵の奥は、わざと山側へ向けて開けてある。畑とは反対の、あいつが帰るべき方角へ。
俺は縁側を飛び出し、鍋の蓋を思い切り打ち鳴らした。
「帰れ——っ! そっちじゃない、山だ、山に帰れ!」
かんかんかん、と夜気を裂く音。作業灯の白光。人間の怒鳴り声。四方八方から押し寄せる音と光に、大猪はもう、畑どころではなくなっていた。
藁束から巨体を引き抜くと、そいつは一目散に——山側の、開いた口へ向かって、脱兎のごとく駆け出した。
どどど、と地を蹴る音が、みるみる遠ざかっていく。やがて山の闇に、巨大な影が溶けて消えた。
あとには、けたたましく鳴り続ける鳴子と、白々と畑を照らす作業灯だけが残された。
俺は、蓋を持ったまま、しばらく突っ立っていた。
我に返って、鳴子を鎮め、作業灯を一つずつ消して回る。急に訪れた静けさの中で、俺は畑を見渡した。
畝は、無事だった。誘導柵の内側、丹精した夏野菜の一列は、葉一枚踏まれることなく、夜露にしっとり濡れて立っている。守り切ったのだ。あの山の主から、この小さな畑を。
膝から、力が抜けそうになった。
◇◇◇
同じ夜、山ひとつ越えた遠い村を、地の底から響くような足音が揺らしていた。
ネル村の者が、幾世代にもわたって最も恐れ続けてきた魔獣。岩をも砕く巨躯を持つ、森の主。その影が、闇の向こうから、まっすぐに村の畑へと迫っていた。
昔なら、村は逃げ惑うしかなかった。松明を掲げ、鍬を握り、それでも幾人もが牙にかけられ、畑は蹂躙された。あの魔獣が現れる夜は、村じゅうが息を潜め、ただ過ぎ去るのを祈るしかない、呪いのような夜だった。
だが、今夜は違った。
畑の縁には、祠の主さまが授けてくださった鋼の神具が、ずらりと据えられている。行商のガロが、村の男たちと幾日もかけて組み上げた、守りの備えだった。
森の主が、畑を囲う柵へ、渾身の体当たりを見舞った。
これまでなら、木の柵など藁束のように砕け散ったはずだ。だが、主さまの神具に補強された守りは、びくともしなかった。地に据えられた鋼の罠が、獣の足をがっちりと捉える。いくら暴れても、巨躯は一歩たりとも畑へは踏み込めない。
やがて森の主は、忌々しげな咆哮をひとつ残して、闇の森へと引き返していった。
畑は、一畝たりとも荒らされてはいなかった。
村人たちは、家々の窓から、その一部始終を見ていた。誰ひとり、傷つかなかった。誰の畑も、失われなかった。
そしてその夜、村の子どもたちは、生まれて初めて、魔獣に怯えることなく眠りについた。
ガロは、祠の前に膝をついていた。
立ち上がることが、できなかった。喉の奥から込み上げるものを、両手で口を覆って、必死に噛み殺す。声を上げれば、ようやく寝ついた子らを起こしてしまう。だから、ただ、肩を震わせて泣いた。
「主さま……ああ、主さま。もう、この村の誰も、あの夜に怯えなくていいんですね」
星明かりの下、若い行商人は、いつまでも祠に額づいて泣いていた。
◇◇◇
俺はといえば、片付けをあらかた終えて、畑の真ん中にぺたりと座り込んでいた。
夜露で尻が濡れるのも構わず、満天の星を見上げて、大きく息を吐く。
「守り……切った。はー、さすがに疲れたな、これは」
全身が綿のように重い。それでいて、腹の底からじんわりと、温かいものが湧いてくる。何かを自分の手で守り抜いた、この確かな手応え。会社にいた頃には、ついぞ味わえなかった種類の充実だった。
たかが畑一枚に、いい大人が夜通しの大立ち回りか。傍から見たら、滑稽な独り相撲もいいところだろう。野菜を作りに来ただけの男が、いつのまにか山の主と知恵比べだ。人生、本当にどこへ転ぶかわからない。
それにしても、と俺はぼんやり思った。
我ながら、上出来すぎやしないか。丸太は一本も折れず、鳴子はぴたりと鳴り、あいつは面白いように山へ帰っていった。ぶっつけ本番の仕掛けが、まるで何度も試したあとみたいに、順番どおり決まっていった。
ひとりで、汗水垂らして組んだはずなのに。
妙な感覚だった。うまく言葉にはできないが——今夜のこれは、俺ひとりの手柄ではないような、そんな気がしてならない。まるで、誰かがそっと横で、柵を支え、道を示し、背中を押してくれていたような。
「……変だな。ずっと、一人で頑張ってたはずなんだけど」
畑の隅で、夜風が、ふわりと草を揺らした。
振り返っても、そこには誰もいない。星と、虫の声と、守り切った畑があるだけだ。それなのに、この庭には確かに、俺のほかにも、何かがいる。そんな気配だけが、じんわりと胸の奥に残っていた。
悪い心地では、まるでなかった。むしろ、ひとりきりだったはずの山暮らしが、いつのまにか、少しずつ賑やかになっていくようで。
俺は座り込んだまま、もう一度、静かな夜空を見上げた。
守り切った畑の向こうで、山が、寝息のように、ゆっくりと闇に沈んでいた。




