第34話
夜が明けきらないうちに、俺は長靴を突っかけて畑へ出た。
昨夜、山の主とでも呼ぶべき大猪に、丹精した畑の半分を踏み荒らされたばかりだ。牙で抉られた畝、へし折られた支柱。電気柵は根こそぎ倒され、自作の箱罠は、まるで紙細工みたいにひしゃげていた。
普通なら、頭を抱える場面だろう。だが、俺の胸の内で燃えているのは、不思議と焦りじゃなかった。
「相手がでかいなら、こっちの仕掛けもでかくすればいい。要するに、設計の問題だ」
声に出すと、腹の底が据わった。これはもう獣害というより、一個の技術課題だ。敵の質量、進入経路、突破力——条件さえ揃えば、あとは組むだけの話である。
まずは要件定義だ。俺はノートを広げ、鉛筆の尻を舐めた。
あいつが畑に入るのは、決まって南側からだ。斜面が緩く、藪が薄い、いちばん歩きやすいルート。獣は無駄を嫌う。必ず楽な道を選ぶ。ならば、その習性を逆手に取ればいい。
図面はするすると固まっていった。誘導柵で進路を一本道に絞り、その先に大型の落とし穴。落ちた先には、緩衝材を敷いた捕獲柵。傷つけずに、動きだけ封じる算段だ。
肝は、二重に組む丸太の柵だった。あの体重と突進力を正面で受け止めるには、ただ杭を並べても話にならない。斜めの支柱を噛ませて、力を地面へ逃がしてやる。三角形は、いちばん頑丈な形だ。理屈は昔から、俺の味方でいてくれる。
頭の中で、ざっと計算してみる。あの図体なら、優に三百キロは超えるだろう。突進の勢いを加味すれば、柵が受け止める衝撃は、その何倍にも膨れ上がる。杭一本あたりに掛かる荷重を割り出し、埋め込む深さと本数を逆算していく。数字が積み上がるほど、必要な材の量と、組むべき手順が、きれいに見えてくる。
◇◇◇
裏山から、太い雑木を選んで切り出していく。
チェーンソーの唸りが谷にこだまして、鋸屑が甘く青くさい匂いを撒き散らす。切り口ににじむ樹液が、朝日にてらてらと光った。汗が背を伝い、木肌のざらつきが手のひらに食い込む。
ここで、妙なことに気づいた。
切り出した丸太が、どれも寸法をぴったり満たしてくれるのだ。継ぎ足しも、切り落としも、ほとんど要らない。
しかも、ひとりで担ぐには往生するはずの太丸太が、今日はやけに軽い。てこを噛ませたわけでもないのに、ひょいと肩に乗ってくる。
掛矢を振り上げ、支柱の頭を打ち込んでいく。ずしん、ずしんと鈍い音が足裏まで伝わり、打つたびに杭が確かな手応えで沈んでいった。腕はとうに痺れているのに、疲れよりも面白さのほうが、はっきりと勝っている。
柱を立て、番線で結束していく。ぎりぎりと締め上げると、結び目がこれまでにないほど固く食いついた。揺すってもびくともしない。まるで、木と木が、自分から噛み合いにいったみたいだ。
喉が渇いて、汲んでおいた水を呷る。妙にきんと冷たくて、いくらでも入っていく。
「今日は、やけに全部がうまく運ぶな。ツイてる」
まあ、こういう日もある。乗っている時は、とことん乗るものだ。
落とし穴は、腰の高さまで掘り下げた。スコップの刃が土に食い込むたび、湿った土の匂いが立ちのぼる。底には切った柴と枯れ草をたっぷり敷いた。落ちたところで大怪我はさせない。あくまで、足止めが目的だ。
その奥に捕獲柵を据える。丸太を格子に組み、内側には古畳と藁束を張りつけた。暴れても自分も柵も傷めないよう、という緩衝である。
いちばん頭を使ったのは、誘導柵の角度だった。急に曲げれば、賢いあいつは違和感を嗅ぎつけて引き返す。だから川の流れみたいに、ゆるやかに、自然と進路が絞られるよう、角度を何度も付け直した。
「まあ、素人の日曜大工だ。プロが見たら笑うかもな」
そう言って見上げた仕掛けは、我ながら、ちょっとした砦みたいになっていた。
◇◇◇
気づけば、日はとっぷり暮れていた。
組み上がった仕掛けを、懐中電灯で照らして見回る。二重の丸太柵、一本道の誘導路、口を開けた落とし穴、その奥の捕獲柵。朝は更地だった南側が、今や小さな要塞に化けている。
資材と気合だけで、よくもまあ、一日でここまで組んだものだ。会社のデスクにしがみついていた頃の俺なら、丸太の一本もまともに担げなかったに違いない。人間、住む場所が変われば、案外変わるものらしい。
汗を拭って、俺は縁側に腰を下ろした。冷めかけた茶を湯呑みに注ぎ、ひと口すする。疲れ切った体の芯へ、ぬくもりがじんわりと染みていった。
山は、もうすっかり夜だ。虫の声だけが、あたり一面を満たしている。
「さて。あとは、来るかどうかだ」
湯呑みを両手で包んで、俺は暗い畑をじっと見つめた。仕掛けは、できる限りのことをやった。ここから先は、もう俺の仕事じゃない。
あの巨体が、今夜、この一本道を歩いてくるかどうか。ただ、それだけだった。
◇◇◇
その夜。組み上がったばかりの砦を見張るように、四つの小さな光が、丸太柵の上に寄り集まっていた。
葉の羽をふるわせたムササビ妖精、モクが、腕を組んで柵を見上げる。
「フン。あの継ぎ方、素人にしては悪くなかったな」
材の寸法をこっそり合わせ、重い丸太に風を通して軽くしてやったのは、モクだった。だが本人は、それを手柄とは言わない。
半透明のスライム、スイが、ぷるりと身を揺らした。
「水を、きんと冷やしておきましたわ。あるじ、おいしそうに飲んでくださって」
両手大の苔玉、コロも、まんまるの目をきらきらさせる。
「つちをやわらかくしたの。くいが、ずんずんささって、うれしいなの」
赤いサラマンダーのエンが、尻尾の火をぱちりと爆ぜさせた。
「四匹そろって手ぇ貸すなんて、初めてだよな。あいつの畑、絶対守らなきゃだぜ」
あるじは今日、何度も「ツイてる」と笑っていた。四匹の姿は、まだその目に映らない。それでも、かまわなかった。大切な畑を、初めてみんなで守れたのだから。
四つの光が、身を寄せ合うように、そっと瞬いた。




