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山を買って古民家スローライフ 〜精霊たちと暮らすDIYな田舎暮らし〜  作者: 猫野いちば


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第33話

 朝、畑に出て、俺は思わず足を止めた。


 昨日まで青々と実っていた畝の半分が、まるで大きな鋤で一気にえぐったように、ぐしゃぐしゃに掘り返されている。トマトの支柱は根こそぎ倒され、囲ったばかりの防獣ネットは、下からめくり上げられて宙にひらめいていた。


 これまでの猪や猿の食い荒らしとは、規模が違う。荒らしたというより、力ずくで「押し通った」跡だった。


「……こりゃ、また派手にやられたなあ」


 声に出してみたものの、不思議と腹は立たなかった。むしろ、被害の大きさを前に、頭のほうが先に動きだしている。


 しゃがんで、めくれたネットの根元を確かめる。あれだけ深く埋めたトタンが、ぐにゃりと折れ曲がっていた。人の力では、まず曲がらない厚みだ。


 電気柵のほうへ回ると、三段に張った電線のうち、下の二本が引きちぎられている。碍子ごと、支柱がへし折られていた。要塞のつもりで組んだ多層防御が、まるで薄紙みたいに突破されている。


「通電はしてたよな……効かなかったのか、これ」


 試しにテスターを当ててみる。電圧は生きていた。つまり、バチッときたのを承知のうえで、それでも構わず突っ込んできた、ということになる。


 俺は思わず、低く唸った。


 痛みを恐れないほど図体がでかいか、あるいは、その一発を「かすり傷」としか感じないほどの厚い皮を持っているか。どちらにしても、相手はこれまでの獣とは、格が違う。


◇◇◇


 地面をたどっていくと、答えはすぐに見つかった。


 やわらかい土の上に、深々と沈んだ足跡がある。猪の蹄には違いない。ただし、大きさがどうかしていた。俺の両手を広げても、まだ余るほどの跡が、畑を横切ってどしどしと続いている。


 その脇の杭には、剛い毛がごっそりと絡みついていた。つまむと、針金みたいに硬い。掌に余る幅の蹄と、この毛の量。頭の中で逆算した体高に、俺は正直、口笛を吹きそうになった。


「でかいなあ、おい。……牛か、これ」


 昨日の夕方、山の奥から漂ってきた、あの地響きのような気配を思い出す。猪や猿とは、そもそもの「重さ」が違う何か。あれの正体が、こいつだったわけだ。


 集落のベテランが、そういえば言っていた。この山にはときどき、途方もなくでかいのが下りてくる、里の者は昔からそれを畏れて「山の主」と呼ぶ、と。この惨状を見れば、主と呼びたくなる気持ちもわかる。


 普通なら、ここで頭を抱える場面だろう。丹精した畑の半分が、一晩で更地になったのだ。柵も罠も破られて、相手は牛みたいな怪物。絶望して、役場に泣きつくのが、たぶん真っ当な反応だ。


 なのに、俺の胸の内で立ち上がってきたのは、まるで別の感情だった。


 これは要するに、「強度の問題」だ。相手の突破力が、こちらの防御の想定を上回った。ならば話は単純で、想定のほうを引き上げればいい。ただ、それだけのことじゃないか。


「相手がでかいなら、こっちも仕掛けをでかくすればいいだけの話だ」


 折れた支柱を拾い上げて、俺は口の端を上げていた。


「要は、設計の問題だろ」


 昔、無理な仕様を前に何度も呟いた台詞が、こんな山奥で、妙に前向きな響きを取り戻している。あの頃はただ胃が痛かったのに、今は、なぜか楽しい。


◇◇◇


 その日は一日、荒らされた畑を歩いて、相手の「仕様」を読み解くことに費やした。


 足跡の間隔から歩幅を割り出し、そこから体格を見積もる。ネットを破った角度、トタンを曲げた方向。どこから来て、どこを狙い、どう抜けていったのか。獣道に残った痕跡を、一つずつ拾って線でつないでいく。


 やっていることは、昔、落ちたシステムの原因を追ったときと、驚くほど同じだった。感情を挟まず、事実だけを並べて、ボトルネックを特定する。相手が猪でもサーバーでも、詰まっている一点を見つける手つきは変わらない。


 妙なもので、こうして本気で頭を働かせていると、道具のほうが先回りしてくれる気がした。メジャーの目盛りが一発で読めて、鉛筆で引いた線がすっと通る。手元が、やけに軽い。


「今日は、なんか調子がいいな」


 誰にともなく呟いて、俺は図面に向き直る。


 メモは、みるみる埋まっていった。柵を破られるなら、破られない太さの丸太で組み直す。力で押してくるなら、正面で受けず、横へ「いなす」導線を引く。落とし穴の深さ、緩衝材の位置、逃げ場の角度。考えるほど、課題が具体的な部品に分解されていく。この感覚が、俺はたぶん、根っから好きなのだ。


 ふと手を止めて、荒れた畑を見渡した。半分になってしまった畝が、夕日に赤く染まっている。


「都会にいた頃は、巨大猪から畑を守る設計をする日が来るなんて、考えもしなかったな」


 我ながら、ずいぶん遠くまで来たものだ。ただ、俺はやりたいことをやっているだけで、たぶん、誰の役に立っているわけでもない。それでも、この手応えのある「守る」という仕事は、あの街の残業のどれよりも、はるかに満ちている。


◇◇◇


 日が落ちて、山の輪郭が藍色に沈んでいく。


 図面はあらかた固まった。あとは材料を切り出し、組み上げるだけだ。頭の中では、もう仕掛けの全体像がくっきりと立ち上がっている。


 畑の隅で、草むらがふわりと揺れた気がして、顔を上げる。


 夕闇に、小さな光がいくつか、ぽつ、ぽつと灯っている。赤、青、緑、それに淡い土色。まるで俺の描いた図面を、そっと覗き込んでいるみたいに、寄り添って揺れていた。


「……お前らも、心配してくれてるのか」


 光は答えず、ただちらちらと明滅している。怖くはない。むしろ、味方が増えたような、くすぐったい心地がした。


 立ち上がって、暮れていく山の奥を見やる。あのどこかに、今夜も山の主が潜んでいる。おそらく、味をしめて、また下りてくる。


 のんびりはしていられない。相手が来るのが今夜か、明日の夜かはわからないが、来てからでは遅い。


 俺は畳んだ図面を、ぱんと膝に打ちつけた。


「よし。明日までに、あいつを止める仕掛けを完成させないとな」


 胸の奥で、久しぶりの熱が、静かに、けれど確かに燃えている。


 畑は渡さない。設計で、必ず止める。三十路手前の元SEは、初夏の夜風の中で、そっと本気の顔になった。


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