第31話
朝の見回りに出て、俺は畑の手前でぴたりと足を止めた。
電気柵の内側、囲ったはずの畝の一角で、真っ赤に熟れたミニトマトの房が、房ごときれいに消えている。支柱は倒れていない。ネットも破れていない。ただ、実だけが、まるで丁寧に摘み取られたみたいになくなっていた。
被害の乱暴さで言えば、猪のなぎ倒しのほうがよほど派手だ。これは、違う。
「……盗られ方が、上品なんだよなあ」
しゃがんで畝を眺めると、やわらかい土の上に、小さな手の跡が点々と残っていた。指が長くて、人の子どもの手をひとまわり縮めたような形。猿だ。
柵は昨日、たしかに通電を確認した。それなのに、どうやって内側まで入ったのか。俺は柵沿いをぐるりと辿って、答えの見当をつけていった。
◇◇◇
種明かしは、その日の午後にやってきた。
畑を離れた小屋の陰から双眼鏡で張っていると、山際の木がざわりと揺れて、猿の群れがぬっと姿を見せた。先頭の一匹が、電気柵の支柱のてっぺんに、ひらりと飛び乗る。
ピントを合わせようと筒を回すと、こういう時にかぎって一発で像が結んだ。妙に手に馴染む双眼鏡だ。それはさておき、俺の目は、猿の一手にすっかり釘付けになっていた。
電線は三段に張ってある。触れれば当然、バチッとくる。ところが先頭の猿は、支柱の"碍子のすぐ脇"——電線を留めた樹脂の、通電していないほんの数センチの一点だけを、器用に足場にした。
電気の通らない場所を、こいつは正確に見抜いている。
「うわ、そこか。よく見つけたな……」
思わず声が漏れた。碍子の際なんて、俺が設計上いちばん気を抜いていた盲点だ。それを、この猿は一目で見つけて、後続に道を譲るように、ひょいひょいと渡っていく。
群れは行儀よく一列に、同じ足場を踏んで柵の内側へ降り立った。感電は一匹もなし。完璧な"抜け道"の共有だった。
◇◇◇
悔しがるより先に、俺は感心してしまっていた。
考えてみれば、向こうだって食うために必死なのだ。柵を張られ、罠を仕掛けられ、それでも腹を満たすために、目と頭をめいっぱい使って一点の隙を探し当てる。
「頭いいなあ、こいつら。俺が半日かけて張った柵の、いちばん弱いとこを、一発で当ててくるんだから」
憎む気には、どうしてもなれなかった。むしろ、こんな山奥で、俺は毎日けっこう本気の相手と向き合っているんだな、とすら思う。都会のデスクでは、こういう手応えのある知恵比べには、ついぞ出会わなかった。
仕掛けておいたくくり罠のほうも、見に行って唸った。餌にした甘藷の切れ端だけが、まるくえぐれるように失くなっている。踏み板には、指一本ぶんの体重もかかっていない。
罠を作動させずに、餌だけ抜く。長い腕を伸ばして、慎重に、そうっと。想像すると、いっそ職人技だ。
「餌だけ持っていくって、おまえら、器用にもほどがあるだろ」
俺は罠の前にしゃがみ込んで、しばらく笑っていた。畑を狙われるのは、正直、困る。困るのだが、この賢さには、いち作り手として拍手を送りたい気持ちのほうが勝ってしまう。
碍子の脇を塞ぐか。踏み板の感度を上げるか。餌の置き方を変えるか。頭の中で、対策の手が次々に組み上がっていく。この感じは、悪くない。むしろ、久しぶりに"設計する楽しさ"に火がついていた。
◇◇◇
ところが、だ。
翌朝、意気込んで塞いだはずの碍子脇には、もう新しい手の跡がなかった。かわりに、群れは柵沿いのまるで別の一点——今度は地面すれすれ、番線の緩んだ隙間から、あっさり内側へ入っていた。
こっちが一つ塞ぐと、向こうは即座に次の穴を見つける。まるで、俺の直した箇所を確かめて回ってから、手を打っているみたいだった。
「……先読みされてる、これ」
昨日の抜け道を潰されたら、今日は別の抜け道。反応が早い。一晩で、こちらの対策を検証して、更新してくる。相手はチームで、しかも学習している。
俺は畑の真ん中に立って、腕を組んだまま、しばらく唸った。腹は立たない。ただ、事の性質が、じわじわと見えてきた気がした。
これは、力ずくの獣害とは、まるで別物だ。
「これは……ただの獣害じゃないな。知能戦だ」
呟いて、俺はもう一度、柵の全体を端から端まで見渡した。次の一手を、根本から練り直さないといけない。
参ったな、と口では言いながら、その実、俺の胸のうちは、面白くて仕方がないのだった。




