第30話
朝の見回りが、いつのまにか日課になっていた。
畑を荒らされた、あの日以来だ。目が覚めて顔を洗ったら、飯を炊くより先に、まず山をひとまわりする。長靴を履いて、軍手をはめて、腰の手ぬぐいで首の後ろをひと拭き。この一連の流れも、もう体が勝手に覚えている。
朝の山は、しんと澄んでいる。
昇りきらない日が、木々の隙間から斜めに差し込んで、下草の露をちらちらと光らせている。ひんやりした空気が肺の底まで流れ込むと、寝ぼけていた頭が、すっと冷たく目を覚ましていく。この時間の匂いは、昼のそれとはまるで別ものだ。
歩きながら、頭の中でチェック項目を、上から順に潰していく。
獣道の踏み跡。真新しい糞の有無。柵の弛みと、支柱の傾き。罠の作動と、餌の残り。掘り返された畝はないか。ついでに、水路の詰まりと、苗の元気も。
……気づけば、点検リストがずいぶん立派になっている。
これはもう、完全に前職の癖だ。サーバーの死活監視というやつも、こうやって項目を並べて、上から順に「異常なし、異常なし」と機械的に潰していくのが仕事だった。まさか山の見回りで、同じことをやる日が来るとは。当時の俺に言っても、絶対に信じないだろう。
「こうやって見て回ると、山がひとつの"システム"みたいに見えてくるな」
電気柵は電源。畑はデータ。獣は、さしずめ想定外の外部アクセスといったところか。そう思うと、荒らされた畝も「障害対応」の一件で、なんだか腹も立たなくなってくる。
我ながら、脳の配線が職業病でできているらしい。
まずは、家のすぐ裏の獣道から。
ここは猪の通り道だ。ぬかるみに残った蹄の跡を見て、昨夜も一頭通ったな、と当たりをつける。糞は乾きかけ。ということは、明け方より前に抜けていったんだろう。こういう推理も、続けているうちに勝手にできるようになった。人は、案外なんにでも慣れる生き物らしい。
道すがら、支柱を一本ずつ手で揺すって、緩みがないか確かめていく。
一本、根元がぐらついているのを見つけた。土が雨でえぐれたせいだ。番線をひと巻き足して、ぐっと締め直す。手のひらに伝わる、かちりと固定される感触。この「直った」の手応えが、俺はどうにも好きらしい。画面の中で片付く仕事には、最後までなかった感触だ。
◇◇◇
柵沿いをたどって、山の東側へ回る。
このルートを歩くとき、俺はいつも、妙なことに感心してしまう。朝露だ。まわりの草はどこもびっしょり濡れているのに、俺がいつも通る踏み分け道だけ、なぜか露が少なくて、歩きやすい。
「毎朝通ってると、道が乾くもんなのかね」
長靴の先で草を分けながら、そんなことを呟く。理屈はよくわからないが、裾を濡らさずに済むならありがたい話だ。山というのは、通えば通うほど、こっちに馴染んでくるものらしい。
柵の通電ランプは、今朝も律儀に点いている。異常なし。箱罠の餌は減っていない。これも異常なし。さすがに指差し確認まではしないが、心の中でひとつずつ丸をつけていく。
……こうして毎朝ひとまわりしていると、少し不思議な気持ちになる。
数ヶ月前まで、この山は俺にとって、ただ「住む場所」だった。それがいつのまにか、頭の中で「守る場所」に変わっている。点検して、手を入れて、異常があれば直す対象。まるで自分が、この山ひとつの管理人にでもなったみたいだ。
たかが家庭菜園の見回りに、ずいぶん大げさな肩書きをつけたものだ。まあ、買ったのは俺なんだから、管理人と名乗るくらいは許してほしい。誰に断る必要もないしな。
◇◇◇
東の畝の外れまで来て、俺はしゃがみ込んだ。
やわらかい土に、足跡がいくつも残っている。毎朝しゃがんで見ているうちに、俺はだいぶ足跡の目利きになってきた。二本の蹄が割れた小さいのは、猪。細くて指の長い、いかにも器用そうなのは、猿。このふたつは、もう見ればすぐにわかる。
だが、その足跡の中に、どうしても分類できないやつが、一種類まじっている。
大きくて、丸くて、指の形が、明らかにほかと違う。猪でも猿でもない。熊にしては爪の跡がなく、犬にしては大きすぎる。図鑑を隅までめくっても、たぶん載っていない類のやつだ。
じっと見つめているうちに、俺の中で、ひとつの確信が固まっていった。
「猪、猿……そして、もう一種類」
指先で、その大きな跡の輪郭を、そっとなぞってみる。
「この大きくて指の形が違うやつは、明らかに別だ。何なんだ、こいつは」




