第29話
朝の六時だというのに、もう蝉が本気を出している。縁側に出て空を見上げれば、雲ひとつない青が、じりじりと熱を溜めはじめていた。
初夏のはずが、この暑さはどうしたことだ。井戸で冷やした麦茶をあおっても、飲んだそばから汗になって流れていく。
こういう日は、何を食う気も起きない。
台所の棚をあさると、束ねたそうめんが目に入った。茹でて、冷やして、つるっとやる。うん、今日はもう、これしかないな。
……いや、待てよ。せっかく山にいるんだ。
ふと、悪い考えが浮かんだ。というか、楽しい考えだ。裏の竹林に、青竹はいくらでも生えている。あれを一本切り出せば、流しそうめんができるんじゃないか。
思い立ったら、体が動く。鉈と鋸を腰に、俺は裏山へ分け入った。
竹林に入ると、空気がひやりと変わる。日差しは葉に濾されて、地面には涼しい斑の影が落ちていた。まっすぐ伸びた若竹を一本選んで、根元に鋸の歯をあてる。
しゃく、しゃく、と引くたびに、青い匂いが立ちのぼった。切り口からにじむのは、青くさくて、どこか甘い、竹の水の匂いだ。
どうっと倒した竹を担いで、庭まで戻る。肩に節の硬い感触。ずしりと重いのに、なぜか足取りは軽かった。
さあ、加工にかかる。まずは半割りだ。
鉈の刃を切り口にあて、木槌でこつこつ叩いていくと、ぱきっ、ぱきっと小気味よい音を立てて、竹が一直線に裂けていく。真っ二つに割れた内側は、しっとり湿って、白く艶やかだった。
次は節を落とす。半割りにした樋の内側には、節がいくつも壁を作っている。これを残したままだと、水が流れない。
金槌の柄で一つずつ叩き割り、はみ出た縁を鉈で削ってなめらかにする。指でなぞって、引っかかりがないのを確かめた。よし、これで水路は開通だ。
あとは架台を組む。物置から古材を引っぱり出し、×に組んで番線で縛り、上流と下流で段差をつける。傾きは、ほんの少しでいい。急すぎると、そうめんが弾丸みたいに飛んでいく。
樋を渡して、上から水を流してみる。井戸から引いたホースの口をあてがうと、水はためらいなく樋を滑り、下の受け桶にぱしゃりと落ちた。
流れる。ちゃんと流れる。
その水に手を差し入れて、俺は思わず声をあげた。
「うわ、冷たっ」
湧き水を引いているとはいえ、これは冷たすぎる。指先が痺れそうなほど澄んでいて、真夏の井戸水なんて目じゃない。まるで、誰かが氷でも溶かしておいてくれたみたいだ。
都会の洒落た店でも、こんな水はそうそう出てこないだろう。それがこの山では、ただで、いくらでも湧いてくる。俺はつくづく、いい身分だ。
◇◇◇
さて、肝心のそうめんだ。
かまどに湯を沸かし、ひと束を放つ。ゆらりと踊る麺を、菜箸でほぐしながら一分半。茹で上がりを、樋の冷水でぎゅっと締める。
手のひらで揉むように洗うと、麺がきゅっと引き締まって、透きとおるような艶が出た。薬味も抜かりない。すりおろした生姜、刻んだみょうが、小口のねぎ。つゆはきりっと濃いめだ。
準備は整った。竹の上流に、締めたそうめんをひとつまみ、そっと放す。
つい、と麺が流れ出す。俺は箸を構えて、下流で待ち受ける。来た。すかさず挟んで、つゆにくぐらせ、ずずっとすすった。
喉を、冷たい麺が滑り落ちていく。噛むほどに小麦の甘みがほどけて、生姜の辛みが後を追う。青竹の香りが、ほんのり移っているのがまたいい。暑さでへばっていた体が、内側から生き返っていくようだ。
もうひとつまみ流して、また受けて、すする。三度目を流したところで、俺はふと箸を止めた。
一人で流して、一人で受けて、一人で食う。
「……字面だけ見たら、完全にヤバいやつだな、俺」
誰もいない庭で、竹を流れる水を相手に、黙々とそうめんを追いかけている三十路手前の男。文字にすると、なかなかの絵面である。
でも、楽しいんだから、いいんだよ。
◇◇◇
気づけば、日が傾いていた。
腹はふくれ、体の火照りもすっかり引いている。あれだけ照りつけていた日差しが、いつのまにか軒先で角を落として、やわらかい橙に変わっていた。
さて、片付けだ。受け桶の水を庭に撒き、樋を立てかけて乾かす。
最後に、樋のいちばん低いところへわずかに残った水を、こぼそうと持ち上げた。その、たまり水の上に。
小さな光が、ぷかりと一つ、浮かんだ。
蛍にしては、まだ早い時間だ。それに、色が違う。淡く青みがかった、水そのものが灯ったような光。それがゆらりと揺れて——すっと、消えた。
俺は樋を持ったまま、しばらくその一点を見つめていた。
「……気のせいか」
目をこすって、もう一度見る。もう、何もない。ただの、夕暮れのたまり水だ。
今日は暑かったからな。目がチカチカしてるんだろう。
俺はそう独りごちて、樋を軒下にそっと立てかけた。竹の匂いが、まだ手にほんのり残っていた。
◇◇◇
軒下に立てかけられた竹樋の、いちばん低いくぼみ。そこに残ったひとしずくの中で、半透明のスライムがぷるんと身を縮めていた。水と浄化の精霊、スイである。
「あぶない、あぶないですわ……」
胸を撫でおろす、ような仕草をして、スイはぷかぷかと揺れた。まったく、今日はうっかりしすぎた。
あんまり暑い日だったから、つい張りきってしまったのだ。あるじが引いてきた湧き水を、いちばん澄んだところまで磨きあげて、きんと冷たくしておいた。竹を流れていくその水の心地よさときたら。滑り台みたいで、楽しくて、ついはしゃいで身を乗り出して——。
「ぷかっ、と浮いてしまうところでしたわ。あるじに見つかったら、大変ですのに」
姿を見られるのは、まだ先の約束。それまでは、こっそりお手伝いするのがお作法だ。わかってはいるのだけれど。
樋のくぼみで、スイはちいさく身をよじった。だって、あるじったら、あんなにおいしそうに、つるつると。
「……ふふ。明日は、もっと冷たくしてさしあげますわ」
ないしょ、ですけれど。そう言い残して、スイの光は水にとけ、すう、と見えなくなった。




