第220話
朝いちばんに、板の間へ入った。東の小窓から光が入る時間だけ、この部屋は明るい。板の木口に日が当たって、赤みのある筋が床の半分まで伸びている。
あと一時間もすれば日が回って、ただの薄暗い部屋に戻る。それでも、朝のこの時間があると分かっているだけで、戸の引き方が違ってくる。
ひと回りして、指を折った。板戸の召し合わせの当て木。框の下端の戸当たり。
点検口の蓋の枠。煙突の板金の浮き。それから、便所と、干し場と、屋外の配線と、二つ目の湯。片手では足りなかった。
この山へ来た年の初夏にも、同じことをやった覚えがある。あのときは数え上げるほうが楽しくて、指が全部埋まっても足りずに、もう一度はじめから数え直した。
今日は、三つ目までが今年のうちの宿題で、そこから先は全部、春以降だ。煙突の板金は、秋に見上げたときから春送りに決めてある。
春以降、というのは便利な言葉だ。できないことを、できない理由ごと先へ送れる。それで焦らないでいられるなら、悪い言葉でもない。
◇◇◇
土間へ戻ると、トモがまた框のきわにいた。昨日の夕方からほとんど同じ場所で、四匹のほうはもう出払っている。
俺は道具箱に腰を下ろして、鉄瓶が鳴りはじめるまでのあいだ、しばらくそいつを見ていた。
物置の戸を開けたのは半月ほど前だ。あのとき俺は、客をふたり寝かせられなかったことを考えていて、部屋がひとつ足りない、と口に出した。そのあとで、框のところにいたこいつを見て、こいつが上がってこられる部屋にするか、とも思った。
思っただけだった。結局、俺が作ったのは人の寝る部屋だったが、灯りをつけた晩に、こいつは框をまたいだ。
またいだが、次の晩、人が寝ていると分かると敷居の手前で止まった。
「なあ。お前、名前はあるのか」
声をかけると、光が二つ、こちらを向いた。返事はなくて、じ、と一つ鳴って、それきりだった。
訊いてから、訊き方が悪かったと気づいた。この子は、答えられることには答える。「これは、なに」と訊いてきたときも、こっちが答えるまで待っていた。
かえりたい、と言ったときもそうだ。どこに、と訊き返したら、知らない、と返ってきた。
答えないということは、答えを持っていないということだ。名を持っていて言わないのではない。はじめから、ないのだと思う。
床下のことを思い出した。懐中電灯が手から落ちて、届かないところで壁を向いて止まった。あのときの暗さは、目を開けているのか閉じているのか分からなくなる種類の暗さだった。
その真ん中で、ぽっ、と灯った。影のできない光り方だった。束石も、土の色も、根太の裏の墨の線も、そこにあるぶんだけ全部見えて、奥の壁までの距離が初めて目で測れた。
あれは、指も差さなかったし、何かを直したわけでもない。俺が石をどうするかを教えたわけでもない。ただ、灯った。
灯る。灯す。そこから音を取ればいい。
鉄瓶が鳴りはじめて、俺は口に出した。
「床下で灯してくれただろ。灯すから、トモでいいか」
言ってから、頭のなかに同じ音の別の字が浮かんだ。友、とも書けるな。思ったが、言わなかった。
口に出すには、まだ早い気がした。名前というのは、つけた側が意味を並べ立てるものではないだろう。
しばらく、返事がなかった。じ、が一度も鳴らない。断られているのか、届いていないのかも分からないまま、俺は鉄瓶の湯を急須へ落とした。
トモ、と繰り返す音がしたのは、そのあとだった。一度目は、ただの音をなぞるようだった。俺の言った三拍を、そのまま返してきただけに聞こえた。
二度目に、間があった。その間のあとに、これまで一度も出てこなかった言葉が混じった。
「おれ、トモ」
俺は驚いた顔をしなかった。したくなかった、というほうが近い。ここで大げさに驚けば、こいつはまた框のきわで固まる。
「トモ。飯にするぞ」
名前で呼び直して、急須を置いた。二度目に呼んだときには、もう口に馴染んでいて、それが妙にうれしかった。トモが框を越えて、土間の土間の床に下りてくる。かまどの一歩手前で止まる癖は、今日もそのままだった。
それでいい。癖まで直してくれと頼んだ覚えはない。
飯を炊きながら、何度か呼んでみた。トモ、そこ濡れてるぞ。トモ、そっちは熱い。
呼ぶたびに光が二つ、こちらを向く。三度目あたりから、向くまでの間が短くなった。用のないときにも一度呼んで、向いたところで、なんでもない、と言った。
なんでもないことで呼ばれるのに慣れておいたほうがいい。四匹はとっくにそうなっている。
その日から、俺はこいつを「お前」と呼ばなくなった。
◇◇◇
夕方、雪をかきに庭へ出た。直売所の脇まで来たところで、手が止まった。
祠跡が光っている。初雪の晩に一度弱まって、そこからは日ごとに強くなってきた。今日はこれまでで一番だ。
苔の乗った台石の根もとから滲む金色が、地面を離れて立ち上がっている。滲むのではなく、立つ、という言い方でないと合わない。
近づこうとして、三歩手前で足が止まった。空気が押し返してくる。押されるというより、そこから先へ足を出す気が起きない。
ゴムの膜に額を当てているような、こちらの都合が一切通らない感じだ。試しに横へ回ってみたが、どの角度から寄っても同じところで足が止まる。
三歩というのは俺の歩幅での三歩で、たぶん向こうが決めた距離なのだろう。
この石畳には、床下から這い出した日に手袋を外して触れている。あのときは、冷たくなかった、というだけの石だった。石が変わったわけではないのだろう。
今日は、光が立っているというだけだ。
光のなかに、輪郭が浮かんでいた。形を確かめようとして、目が滑る。縦に長いものだ、というところまでしか分からない。
近づけない以上、測りようがなかった。
同じ場所の抜け跡を、俺はこの冬に二度見ている。一度目は初雪のすぐあとで、丸みと細長い張り出しがあって、人とも獣ともつかない形だった。あれは半日で崩れて、ただの水になった。
二度目は床下から這い出した日で、丸くて、縁が崩れていなかった。
三度目の今日は、跡ですらない。形そのものが雪の上に立っている。
足もとで、じ、と鳴った。トモがいつのまにか隣まで出てきていて、押し返してくる手前の、俺の靴の横だ。
「あれ、しってる」
それきり口を閉じて、あとは輪郭のほうを向いたまま動かなくなった。
「知ってるのか」
今度は、じ、とも鳴らなかった。
俺は自分で言葉にしてみた。通ってきたところ、なのかもしれない。焦げた毛先で杉の根もとに転がっていたこいつが、どこかから落ちてきたのだとしたら、落ちてくる口がどこかにあったことになる。
驚きはしたが、そこから先に考えが伸びなかった。どれだけ遠いのか。
向こうに何がどれだけあるのか。そういうことを考えようとすると、頭のほうが勝手に、明日の当て木の寸法へ逃げていく。
この一年半、そういう逃げ方を何度もしてきた。金貨も、消える野菜も、料金箱に入っている毛皮や石も、そのつど少し考えて、そのつど手元の仕事へ戻った。
今日もそうなるのだろう。これまででいちばん大きいのに。
俺は雪かきの手を戻さず、しばらくそこに立っていた。トモも動かなかった。雪が締まって、足の下で鳴らない。
光は明滅もせずに、同じ強さで立っていた。
◇◇◇
その同じ晩、山のずっと向こうで、老人が語っていた。辻の祠の前に、子どもが五人ばかり集まっている。老人の掌の下で石が脈を打ち、その向こうの光のなかに、同じ縦長の輪郭が立っていた。
「昔なあ、雷を司るものが、祠から出ていったきり、戻らんのだと」
子どもたちが黙る。冬の風が、村の屋根を鳴らして通った。
語り終えても、輪郭は消えなかった。ガロは背負った旅荷の紐に手を掛け、一度ゆるめて、もう一度きつく結び直した。




