第219話
朝のうちに、客をふたり見送った。奥の客間に泊まったほうが先に出て、板の間のほうがそのあとに続く。二台の車が坂を下りていって、エンジンの音が谷のほうへ遠ざかり、途中で杉に吸われて消えた。
坂の途中で一度ブレーキランプが灯って、それから見えなくなった。
家のなかが急に静かになっていた。人がふたりいなくなっただけで、これだけ音が減る。膳を下げて、椀を洗って、布団を畳んで押し入れへ戻す。
湯たんぽの湯を捨てて、栓を外して逆さに立てておく。板の間のござは、日が高くなってから干すことにした。
戸と框の隙間は、まだ塞いでいない。昨夜も、土間の熱はあの部屋に一分も届かなかったはずだ。それでも寒いとは言われなかったので、湯たんぽと毛布で足りたのだろうと思うことにした。
◇◇◇
四匹が散っていく。コロが先に出ていって、雪をかいた道を転がりながら畑の畝のほうへ帰る。スイは井戸端で桶の水を一度だけ大きく揺らして、それきり静かになった。
エンはかまどの残り火のなかへ潜って、灰の下でひとつ膨らんだ。モクは作業台の上で腕を組んで、鉋屑をひとつ落とした。
この十日ほどは、俺のほうが四匹の持ち場を通りすぎてばかりいた。板を運び、床下へ潜り、天井裏へ首を突っ込み、電気屋を待った。
今日はその逆で、四匹が自分の場所へ戻っていく。寒い部屋には誰も来なかったやつらが、当たり前の顔で持ち場へ帰る。そのことを、俺は妙だとは思わなかった。
土は畑にあり、水は井戸にあり、火はかまどにあり、道具は作業台にある。そういうものだ。
片づけをしながら、一匹ずつ名前を呼んで見送る形になった。コロ、水はもういい。スイ、あとで湯を張る。
エン、昼は火を落としていいぞ。モク、鑿は明日研ぐ。呼べば、それぞれの場所から短い返事が返ってくる。
返事の長さも、返ってくるまでの間も、四つとも違う。呼べば返ってくるというだけのことが、この十日ぶりにはありがたかった。
◇◇◇
細いのだけが、土間に残っていた。框のきわ、板戸の手前。昨日、人が寝ているあいだじゅう越えなかったところだ。
考えてみれば、こいつには持ち場がない。土間は薪ストーブの置き場で、誰の場所でもない。板の間はできたが、あそこは人が寝る部屋であって、こいつの部屋ではない。
畑は土のもので、井戸は水のもので、かまどは火のもので、作業台は道具のものだ。空いているところが、この家に一つもない。
昼前に、コロが畑から一度戻ってきて、框の下から声をかけた。
「ねえねえ、こっち、ぽかぽかだよぉ」
雪の下の土が温いのだと言う。そいつは框から動かなかった。コロは無理に引っぱらずに、しばらく足もとで丸くなってから、そのまま畝へ帰っていった。
誘い方に押しがないのは、この子のいいところだと思う。見ているこちらの気分まで、少し軽くなる。
昼を過ぎたころ、井戸端のほうでスイが水鉢の縁をひとつぶん空けた。誘い文句のつもりらしい。
「あら。……お隣、空いておりますわ」
しばらくして、かまどの灰のなかからも声が上がった。
「おう! こっち来いよ。あったけえぞ」
エンの声を聞いたのは、ずいぶん久しぶりな気がした。この何日か、俺は火より板と線ばかり見ていた。焚きつけを頼むこともなかったし、湯を沸かすのも自分でやっていた。
モクは何も言わなかった。作業台の上から鉋屑をもうひとつ落として、それきり手元へ戻った。あれはあれで、こっちを見ていないという顔ではない。
誘わないことを選んだ、という顔に近かった。
そいつは、どこへも行かなかった。三度誘われて、三度とも框のきわにいた。断っているようには見えない。
行き方が分からない、という止まり方に近かった。
夕方、土間の灯を入れた。薪を足して、鉄瓶を天板へ載せて、明日の段取りを頭のなかで並べる。戸と框の詰め物、点検口の蓋の枠。
どちらも半日仕事で、どちらもまだ手をつけていない。
湯が沸くのを待ちながら、四匹に声をかけようとして、そこで口が止まった。
「コロ、スイ、エン、モク——」
そのあとに続く音がない。四つ並べて、五つ目のところで舌が行き場をなくした。開いた口を、そのまま閉じた。
道具を拭きながら考えた。名前は、俺がつけたものが一つもない。スイもエンもモクも、向こうから名乗った。
家じゅうを回って順に名を告げられたあの日、俺は「ど、どうも」と返してしまったくらいだ。コロにいたっては名乗られた覚えすらないのに、いつのまにか俺がその名で呼んでいる。
どれも、覚えたのであって、つけたのではない。
呼べる名前が四つしかない。それが急に物足りなくなって、自分でも可笑しかった。
こいつは、名乗らない。名乗らないのか、名乗れないのかも分からない。名を持っていて言わないのと、はじめから持っていないのとでは、ずいぶん話が違う。
どちらなのかを確かめる方法を、俺は持っていない。訊けば答えるやつではあるが、訊いて答えが返らなかったときに、それが黙りなのか空なのかを見分ける手立てがない。
拾ってきた晩から、半月あまり経つ。そのあいだ、俺はこいつを呼んだことが一度もなかった。呼ばずに済んでいたのは、いつも目の届くところにいたからだ。
土間にいて、框にいて、床下までついてきて、荷台に乗った。呼ぶ必要がないくらい、近いところにいた。
軽トラのなかで、一度だけ言われたことがある。かえりたい、と言った。どこに、と訊いたら、しらない、と返ってきた。
それきり、こいつはその話をしていない。
俺は布巾を絞り直して、鑿の刃を拭いた。拭きながら、その一往復を頭のなかでもう一度やった。行き先を言えない者の帰りたいを、俺はどう扱えばいいのか分からない。
◇◇◇
灯を強くしたのは、暗くなったからだった。土間の裸電球は傘が浅いので、明るくすると影の出方がはっきりする。柱の影が壁へ倒れて、薪棚の影が土間の床へ落ちて、鉄瓶の影が天板の縁からはみ出す。
持ち場に散った四つの影は、ここにはない。框のきわに、小さい影がひとつだけ残っていた。
灯を強くしても、その影だけは濃くならなかった。




