第218話
昼過ぎに、客がふたり来た。別々の車で、坂の途中で前後になっただけだ。前とまるで同じ形だと気づいたのは、二台目のエンジンの音を聞いたときだった。
あのときも、坂の途中での粘り方で、荷を積んだ車ではないと分かった。
違ったのは、後から上がってきたほうが、見覚えのある軽トラだったことだ。雪の日にふたり重なった、あのときの若いほうだった。
帰りぎわに、また来てもいいですかと訊いた人だ。いいですよ、と答えたのは俺で、答えたときには、次に何を出せるかまでは考えていなかった。
あのときは、玄関先でふたりを立ち止まらせた。荷物を土間の同じ隅へ置かせて、湯を勧めて、飯を出して、寝る段になってから、部屋がひとつしかないことに気づいた。
土間で数を並べ直したのを覚えている。飯は足りた。湯も足りる。
布団も二組ある。並べていくと足りないものが一つずつ消えて、最後に一つだけ残った。
今日は立ち止まらせなかった。玄関で靴を脱いでもらうより先に、荷物の行き先を言った。
「荷物、こちらでお預かりします。奥の廊下と、こっちの部屋と、二つありますので」
言いながら、自分でもずいぶん滑らかだと思った。案内する先が二つあるというだけで、言葉の順番が変わる。並べてから決めるのではなく、決まっているものを言うだけになる。
もてなしがうまくなったわけではない。部屋が一つ増えただけだ。それだけのことで、こんなに肩の力が抜けるとは思わなかった。
◇◇◇
板の間へ、その人を通した。ござを敷いて、その上に布団。枕元に湯たんぽ。
ゴムを替えて、布でくるんである。抱えると、布越しに鈍い熱が来る。
前に来たとき、この人が寝たのは俺の寝間だ。俺が毎晩使っていた薄いほうの布団で、それを人に貸したというだけの話だった。今日はそうではない。
先に部屋を見せて、板戸を開けたまま、それから言い足した。
「ああ、先週まで物置でした」
その人は畳がないことにも、家具がないことにも触れなかった。荷物を下ろして、部屋の真ん中に立って、それから鼻から息を吸って、こう言った。
「この部屋、木の匂いがしますね」
藺草の匂いの下から、新しい板の匂いが立ち上がっている。あと半月もすれば薄くなる匂いだ。いま来た人にしか嗅げないものを、いま来た人が当てた。
いい部屋ですね、とは言われなかった。畳も家具もないのだから当たり前で、こちらもそう言われるつもりで見せたわけではない。
匂いのことを言われたのは、たぶん、そのほうが本当だったからだ。
風呂の順番を決めた。湯は張ったままなので、薪を足せばそのまま使える。脱衣所だけは、どうにも寒い。
「風呂上がり、脱衣所だけ寒いです。走ってください」
先に断ってから言うようになったのも、あの日からだ。あのときは笑ってもらえたので、そのまま使っている。
◇◇◇
台所で膳を出した。前の持ち主のものを洗って拭いたやつだ。客用の四つより、ひとまわり小さい。
縁の欠けたところは、目立たない側へ回した。
並べてみると、小さいほうが二つ、卓の上でちょうど納まった。四つのほうを出すと、人数より器のほうが大きく見えて、二人で使うには場所を取りすぎる。
物置から出てきたものが、出てきた理由のあるところへ収まった格好だった。膳を並べながら、悪くない、と口の中で言った。
かまどに火が入って、汁が煮えて、飯が炊ける。並べたのは、大根と油揚げの汁、干した茄子の煮もの、白菜の漬物、それに飯だ。
羽釜の蓋を開けると、湯気が顔まで来た。しゃもじを入れて天地を返す。夏に干した茄子は、戻すと皮のところだけ歯ごたえが残って、噛むと出汁と一緒に甘みが出てくる。
汁を一口すすってから、飯をひと箸。ぷつっと米が弾けて、白菜の塩気があとから追いかけてきた。若いほうが、椀を持ったまま一度動きを止めた。
前に来たときも、同じ止まり方をしていた。
土間で薪を足しながら、そういえば去年は年末らしいことを何ひとつしなかったな、と思った。餅もつかなかったし、正月が来た記憶もない。
あの冬に覚えているのは、雪と薪と、味噌汁のことだけだ。今年はどうだろうか。考えかけて、汁が噴いたのでやめた。
客がふたりとも湯から上がったころ、井戸端のほうから声がした。
「ふふ。今夜のお湯も、最高の仕上がりでしたわ。あのお部屋にも、湯気を一度だけ、通しておきましたのよ」
「湯気を、通す」
「わたくし、板が乾ききるまでは、控えておりましたの」
半分しか分からなかった。分からないほうは、聞き返さずに膳を運んだ。あとで訊けばいいと思ったし、たぶん訊かないだろうということも分かっていた。
この山では、そういう半分がいくつも溜まっていく。
◇◇◇
卓では、ふたりが同じくらいの間合いで喋った。前のときは、寝る場所の話が出た途端に他人の顔へ戻った。今日はその話が出ない。
出ないというより、こちらが先に済ませてある。
若いほうが、前に来たときの話を少しした。走ってください、と言われて本当に走った、という話で、初めての人が笑い、こちらも笑った。
同じ廊下の同じ寒さが、二度目には笑い話になっている。
夜。奥の客間にひとり、板の間にひとり。戸を閉めて回った。
板戸を閉めた瞬間、土間の薪が爆ぜる音が遠くなる。熱は一分も届かない。戸と框の隙間は、まだ塞いでいないままだ。
俺は毛布を一枚持って戻った。押し入れの奥にあった、去年の冬に自分がかぶっていたやつだ。
「使わなくてもいいんで、そこに置いときます」
戸口で声だけかけて、敷居の内側へ置いた。中からは、ありがとうございます、と短く返ってきた。まだ起きていたらしい。
新しい部屋というのは、初めての晩はたいてい寝つきが悪い。
奥の客間の戸を閉めて、土間へ戻る途中だった。板戸の向こうで、音がした。
寝返りを打って、板が一度だけ鳴った音だ。昼に俺が踏んで、二度目には鳴らなかったあたりだと思う。それから、寝息が続いている。
物置だったころ、この戸の向こうから聞こえたのは、積み上げたものが自分の重みで少しずつ沈んでいく音だけだった。年に何度か、夜中にごとりと鳴って、朝に開けてみると何も倒れていない。
あれはあれで、家の音だと思っていた。
いまは、人の音がしている。同じ板の向こうで、同じ厚さの戸を隔てて、鳴っているものだけが変わった。戸も柱も、去年からそこにある。
俺は框のところに立ったまま、しばらくそれを聞いていた。土間の床から、足の裏だけが冷えていく。それでも、もう少し聞いていたかった。
足もとに、細いのがいた。板戸のこちら側で、俺と同じ向きに止まっている。昨日この戸をまたいだくせに、人が寝ている今夜は、敷居の手前から動かなかった。
俺は土間の灯りを落として、自分の部屋へ戻った。




