第221話
三十日の昼、坂の下から軽トラが上がってきた。区長さんだった。
助手席から下ろしたのは、平たい木箱だ。蓋を外すと、白い塊が並んでいる。集落の公民館で搗いた餅で、丸めたものと、板状に切り分けたものが半々に入っていた。
「結城さん、これ持ってきな。一人で正月やるにも、餅くらいはないと格好つかんだろ」
「いいんですか、こんなに」
「毎年、余るんだわ。若いのが減ったでな」
返しに、去年の秋に仕込んだ二年目の味噌を容器に取って、糠床の古漬けを新聞紙に包んで持たせた。区長さんは中身をひと目見て、味噌のほうを二度持ち上げた。
重さで年数を測るような持ち方だった。搗きたてでない餅は、表に粉がついて、指で持つと乾いた手ざわりがする。冷えて硬いぶん、板の上で音を立てて滑った。
去年は年末らしいことを何もしなかった。正月が来た記憶もない。今年はもらってしまった。もらった以上、食わないわけにもいかない。
大晦日は、大掃除にならなかった。二年目なので、溜め込んだ埃がない。去年は越してきた年の暮れで、天井の隅も戸袋の裏も手つかずだった。
今年は障子の桟と神棚だけ拭いて、それで終わった。拭くところがないのは、片づいているということなのだろうが、手持ち無沙汰でもある。
夕方から雪になった。粒が細かくて、風がない。乾麺の年越しそばを一人ぶん茹でた。
出汁を引いて、刻んだネギを載せる。天ぷらも蒲鉾もない。ラジオを小さく鳴らして、囲炉裏端に座った。
雪が音を吸って、外が無音になる。ラジオの向こうで人が笑っているのが、ずいぶん遠い場所の出来事に聞こえた。麓の寺の鐘は、風向きが合えば聞こえるらしい。今年は聞こえなかった。
時計を見て、年が変わったのを知った。鐘でも、テレビの秒読みでもなく、ただ針が回った。年の変わり目が、こんなにあっさりしているとは知らなかった。あっさりしているのが、思ったより心地よかった。
「明けましておめでとう」
言ってから、相手を探した。土間の四匹と框のきわのトモが、それぞれの高さからこちらを向いている。
「……言う相手が、お前らでいいのかは分からないけどな」
「あける、とは、なに」
トモが訊いた。名前をやってから、訊くのが少し増えた。
「年が明ける。日が変わって、一年が新しくなる。……いや、変わるのは数字だけで、雪も薪も昨日のままなんだけどな」
自分で言っていて、説明になっていないと思った。答えられないまま笑って、湯呑みを置いた。
◇◇◇
元日の朝、初日は出なかった。尾根の上が厚い雲で、日の出の時間になっても白くならない。待っていると、雲の縁だけが金色になった。
日そのものは最後まで見えなかった。あれでも初日と言っていいのだろうと思うことにした。
餅を焼いた。
網に載せて、熾火の上でじりじり待つ。表がうっすら色づいて、それから真ん中が膨らみはじめる。
膨らんで、膨らんで、ぱん、と裂けた。裂け目から白い中身が押し出してきて、そこだけ艶が出る。
雑煮は味噌仕立てにした。自分の大根と菜っ葉、麓で買った鶏肉。出汁を引いて、味噌を溶いて、焼いた餅を椀へ落とす。落とすと汁が跳ねるので、椀を傾けて縁から滑らせた。
箸で持ち上げると、餅がゆっくり伸びた。噛むと外側が香ばしくて、中はまだ熱い。味噌のかどが取れているのは、二年目のやつだからだろう。うまい。飲み込んだあとに、腹の底があたたまってくるのが分かる。
大根が甘い。雪の下で越冬させたぶんだ。
一口目のあと、しばらく黙って食った。去年の今ごろ、俺は何を食っていたんだったか。思い出せなかったが、少なくとも、こういうものではなかった。
◇◇◇
昼、軽トラで麓へ下りた。集落の小さな社へ初詣に行く。四匹はついてこなかった。
誰も何も言わないし、俺も訊かない。橋の手前で誰も乗らないのは、もうこの家の決まりごとになっている。
助手席にトモが乗った。橋の継ぎ目を越えても薄くならない。前に連れていったときは、店に着くころには輪郭が溶けはじめていた。
今日はそれがない。
窓の外を見ている。雪の田んぼと、電線と、たまにすれ違う車。
見ているだけで、何も訊かなかった。根を張ってないだけだ、とモクは言った。そのうち動けなくなる、とも。あれから半月経って、薄くなる気配はない。
社は、鳥居と拝殿だけの小さなものだった。境内の雪は、かき分けたぶんだけ細く道になっている。区長さんと源じいがいた。年始の挨拶を交わして、今年もよろしくと言い合う。
賽銭を入れて、鈴を鳴らして、手を合わせた。願うことが、思いつかなかった。しばらくそのままでいて、結局、何も願わないまま手を下ろした。
帰りの車で、トモが一度だけ社のほうを振り返った。降りるかと訊いたら、動かなかった。鳥居の内側には、たぶん入らないのだろう。
二日は、人が来た。森野さんが昼前に来て、玄関先で頭を下げた。手土産に、鉋屑を固めたような焚きつけの束を置いていった。
「明けましておめでとうございます、結城さん。……今年は、人の出入りが増えますよ」
鉄本さんは昼過ぎに来て、上がるなり網の前へ座り込んだ。
「ハッ、正月から働かせる気か。いいぜ、火はオレが見る」
働かせるつもりはなかったのだが、網の位置を直され、火の高さを変えられ、餅を六つ焼いて全部食われた。焼き加減はたしかに俺より上手い。六つとも取られたのに、腹は立たなかった。人の家の火をああも遠慮なく使われると、かえって可笑しい。
膨らむ寸前で網を回すので、破れ方が揃う。鞍馬さんも夕方に顔を出して、縁側から山を眺め、「ふむ」と言って茶を一杯飲んで帰っていった。
宵さんだけは、日が落ちてから別に来た。庭に立って、土間へは上がらずに、湯呑みを一杯だけ受け取った。
「ふふ……年が明けたのねえ。あなたの山、少しだけ、息が速いわ」
息、と言われて、俺は自分の吐く白いものを見た。そういう話ではないのだろう。宵さんは庭の隅へ一度目をやって、すぐに逸らした。
皆が帰ったあと、土間を片づけていて気がついた。四匹が、代わる代わる庭の隅へ行っている。
コロが行って戻り、しばらくしてスイが行って戻る。エンがかまどから出ていって、モクが梁から降りて出ていく。見張っているというより、様子を確かめに行っている。
かまどの奥から、この何日か聞いていない声が上がった。
「お、あるじ。あそこ、オレには手が出せねえぜ」
年が明けてから、庭の隅は明らかに強い。夜には、雪の面が直売所の向こうまで薄く明るい。手が出せないというのがどういう意味なのか、訊く前にエンは引っ込んでしまった。
行かないのはトモだけだった。土間の同じところにいて、そちらを向きもしない。名前がついてからは框の外まで出てくるようになったし、呼べば来る。それでも、庭の隅へは行かない。
四匹が行って、一匹が行かない。俺はそのことを一度だけ数えて、それきりにした。
◇◇◇
三日の朝、雪をかきに出た。積もりは膝の下までで、屋根に上がるほどではない。スコップを軒下から出し、直売所までの道をつけにかかる。
庭の隅の光が、変わっていた。暮れに見たときから、あの縦長のものは立ったままだ。ただ、強さのほうは日によって動いていた。今朝は、それがない。
同じ強さで、じっと灯っていた。




