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山を買って古民家スローライフ 〜精霊たちと暮らすDIYな田舎暮らし〜  作者: 猫野いちば


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第216話

 夕方のうちに、湯たんぽへ湯を張ってみた。栓のゴムは硬いままだったので、指のあいだでしばらく温めてから捻じ込む。急に締めるとゴムのほうが裂けるので、少し回しては待って、また回した。


 逆さにして、布巾の上に置く。しばらくして戻ってみても、布巾は乾いたままだった。


「あら。ほら、ご覧なさいまし」


「使えるな、これ」


 漏れない、というだけのことが、妙にうれしかった。前の持ち主が使っていたものが、いまも使える。それだけで、この家に何十年ぶんかの続きがあるような気がしてくる。


「ゴムだけ替えれば、あと十年は持ちますわ。……あのお部屋に置くのでしょう」


 スイがそう言ったのは、俺がまだそこまで口に出していないうちだった。置くつもりではあった。灯りも暖房もない部屋に人を寝かせるなら、いま手元にある熱はこれだけしかない。


 火鉢を持ち込むには、板を張ったばかりの部屋は新しすぎる。


 前の持ち主も、たぶん同じ理屈でこれを使っていた。物置の奥から出てきたということは、使わなくなってから仕舞われたということでもある。


 使わなくなった理由が、あの部屋に人を寝かせなくなったからだとすると、話がひとつ繋がる。


◇◇◇


 日が落ちきってから、庭に人影が立った。足音がしないのは鞍馬さんと同じだが、こちらは影のほうが先に濃くなる。気配を感じて顔を上げるのではなく、雪の白さが一点だけ暗くなって、それが人の形になる。


 宵さんだった。冬に入って、初めてだ。


「湯、沸いてますよ」


「あとでね。それより、あの部屋を見せて」


 庭を横切ってくるあいだに、もう決まっていた言い方だった。風呂より先に、というのは珍しい。この人はいつも、来るとまず湯の様子を訊く。


 訊いておいて浸からないのだが、訊くところまでは決まった手順のようになっていた。それを飛ばしたということは、こちらへ来る前から見るものを決めていたのだろう。


 俺は土間からランタンを提げて、板戸を引いた。掛け金はまだ付いていないので、指をかけて横へ滑らせるだけだ。


 張ったばかりの板の間に、二人。灯りはランタンひとつきりで、床に丸く落ちるだけだ。部屋の隅までは届かない。


 この部屋を夜に見るのは、俺も初めてだった。昼のあいだは窓から光が入るので気づかなかったが、灯りがないというのは、ここまで何も見えないということらしい。


 壁がどこにあるのかも、手を伸ばさないと分からない。息は白い。


「すみません、寒くて」


「わたし、寒いのは平気なの。冷えているほうが、よくなるものもあるでしょう」


 宵さんはしゃがんで、新しい板を手のひらで撫でた。撫でた跡から、木の匂いが立った。昼のあいだは気づかなかった匂いが、夜のほうが濃い。


 手のひらが板の上を行って戻るあいだ、この人は何も言わなかった。それから懐に手を入れて、板の上に小さなものを置いた。


 青い石だった。爪の先ほどの大きさで、ランタンの灯りを吸って、内側から色が滲んでくる。


「うちの勘定台に、置いていった人がいるのよ。お代のかわりに、これを一つ」


 俺は土間へ戻って、棚の奥の箱を出してきた。一年ちょっと前に料金箱に入っていたやつだ。金貨も革も混じっていたなかで、これだけは使い道が分からないまま箱に入れてある。


 近ごろ、脈を打つように色が濃くなる日がある。気のせいだと思っていた時期は、とうに過ぎた。


 二つを板の上に並べた。色は同じで、大きさも、握ったときの手ざわりも近い。少なくとも、同じところで拾われたものだろうということは分かる。


 宵さんの店に置いていった客と、うちの料金箱に入れていった相手が、どこかで繋がっているということでもある。


 触れていると、こちらの一つのほうが少し温かいのが分かった。指を離さずにいると、その差がだんだん小さくなって、そのうちに消えた。


 どちらがどちらに合わせたのかは、分からない。分からないままでも、掌のなかが温かいのはありがたかった。並んでいるあいだじゅう、二つとも、色がゆっくり濃くなったり薄くなったりしていた。


◇◇◇


 細いのは、部屋の隅から出てこなかった。宵さんが入ってきたときから、隅の柱の陰にいる。宵さんはそちらへ体を向けて、しゃがんだまま、名前を呼ばずに話しかけた。


「この子、急いで来たのね。そんなに急ぐと、置いてくるものがあるのよ」


「置いてくる、って」


 宵さんは口を閉じた。そこから先は継ぎ足さない、という閉じ方だった。この人はいつもそうで、答えないことと嘘をつくことを、きれいに分けている。


 俺は膝を組み直して、正面から訊いた。この人に正面から訊いて答えが返ったことは一度もないが、訊かないと、訊かなかったことのほうが後で残る。


「秋に言ってましたよね。遠くからお客が来るって。あれ、どのくらい遠くなんですか」


 県外だろうと思っていた。もっと言えば、去年はそう思って納得していた。ここ何日かで、それが合っていない気がしはじめている。


 宵さんは答えなかった。かわりに、土間の戸の隙間の向こうへ、ちらと目をやった。庭の隅の、直売所の先だ。


「あなた、待つのが下手ね。わたし、待つのだけは得意なの」


「待てとしか言われてない気がします」


「そうよ。待つ話をしているんだから」


 食い下がる糸口がなかった。訊き方を変えても、たぶん同じところへ戻される。


◇◇◇


 結局、湯には入らずに帰ると言う。この人が湯に浸かったところを、俺は一度しか見ていない。誘えば縁までは来る。


 来て、縁に腰を下ろして、湯気だけ浴びて帰る。今日はその縁にも寄らなかった。


 玄関先まで送った。雪は締まって、足の下で鳴らない。庭の隅がぼんやり明るくて、その明るさは初雪の晩よりも確かに濃かった。


 この人が目をやったのは、庭の隅だった。県外だの外国だのと数えていた地図の、どこにも当たらない方角だ。あそこには直売所しかない。


 直売所の先には、苔の乗った台石しかない。


「石、忘れてますよ」


 振り返らずに、宵さんは言った。


「これは、置いていくわ。……そのうち、取りに来る人がいるかもしれないもの」


 坂を下りていく背中を見送ってから、板の間へ戻った。ランタンは置いたままにしてある。


 二つの青い石が、暗い板の上に並んだままだった。片方をつまむと、さっきより両方とも温かい。箱へ入れるべきか、ここへ置いたままにするべきかで、しばらく迷った。


 取りに来る人がいるかもしれない、と言われた以上、しまい込むのは違う気がする。


 隅にいた細いのが、いつのまにか一歩ぶん近づいて、そこで止まっていた。石までは、まだ遠い。俺はランタンを持ち上げ、二つを板の真ん中へ寄せてやってから、部屋を出た。


 板戸を引くと、暗がりのなかに青いのが二つ残った。


「……取りに来るのか、これ」


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