第215話
新しい床の部屋へ入ると、まだ寒かった。土間の薪ストーブは昨夜から熾を落としていない。板戸をひとつ隔てただけのこちら側で、息が白くなる。
床は直った。寒さのほうは、直っていない。
張ったばかりの板は、素足で乗ればさすがに冷たい。だがこれは板が冷たいのであって、部屋が寒いのとは別の話だ。冷たい板の上でも、空気が止まっていれば、そのうち体のほうが場所を温める。ここは温まらない。
部屋の空気そのものが動いている。動いているということは、どこかから入って、どこかへ抜けている。入る口と出る口が、両方あるということでもある。
人の目に見えないものを探すには、見えるものを借りるしかない。
前の勤めでも、落ちる原因が分からないときは、まずログを吐かせるところから始めた。見えないものは見えるようにしてからでないと、手の打ちようがない。やっていることは、あのころと変わっていない。
線香を一本、皿に立てた。去年、水道管の凍結よけを考えたときに買って、半分ほど残っていたやつだ。火をつけると、細い煙が立ち上がる。
まっすぐ上には行かなかった。床から三十センチほどのところで折れて、横へ流れていく。折れる高さがずっと同じなのが、かえって気味が悪かった。
その先を目で追って、壁ぎわへ膝をついた。手の甲を壁沿いに這わせて、部屋を一周する。手のひらより手の甲のほうが、細い冷たさをよく拾う。
皮が薄いからだと聞いたことがあるが、本当かどうかは知らない。
腰の高さで一周して、次は床から二十センチの高さで一周する。這っている時間のほうが長いので、朝のうちに膝が濡れた。
壁は土壁で、指を当てると全体にひんやりしているが、それは冷たさが通っているのではなく、壁そのものが冷えているだけだ。二つは区別がつく。
区別がつくようになったのは、この一年半のあいだだと思う。手の甲一つで壁の話が読めるというのは、我ながら悪くない身につき方だ。
二箇所は、それで見つかった。一つ目は板戸の召し合わせで、二枚の戸が重なる縦の一本に、光が細く通っている。手をかざすと、刃物みたいに細い冷たさが当たる。
二つ目は框の付け根だ。土間との段差の下から這い上がってきていて、床に近いほど強い。線香の煙が横へ折れていたのは、これだった。
どちらも詰め物と当たり材で片がつく。板戸のほうは、召し合わせに細い当て木を一本打って、閉めたときに重なるようにしてやればいい。
框のほうは、下端に薄い板を回すか、麓で戸当たりのゴムを買ってくるか。どちらも半日仕事で、材はたぶん納屋にある。今日でなくてもいい。
それでも、勘定が合わなかった。この二つを塞いだところで、これだけ冷えるとは思えない。まだどこかに、もっと大きい口が開いている。
◇◇◇
線香をもう一本立てて、部屋の真ん中から見直そうとしたときだった。煙が乱れて、読めなくなった。
細いのが、煙のすぐ横に入って、そこで止まっている。輪郭が、いつもより細かく震えていた。
「おい、退けよ。煙が見えない」
声をかけても、輪郭が震えているだけで、位置は一寸も変わらなかった。
「ここ、いたい」
言ったきり、やはり動かない。痛いなら退けばいい。退かないなら、なぜ痛いと言うのか。
両方いっぺんに来ると、こちらの頭のほうが追いつかない。
「邪魔だ、そこ」
言ってから、自分の声の温度に気づいた。
「……いや、悪い。ちょっと、そこ座っててくれ」
言い直すと、素直に隅へ寄って、そこに止まった。座った、という言い方でいいのかは分からない。床から少し浮いたまま動かなくなって、じ、とも鳴らなかった。
退いたぶんの場所へ、何の気なしに俺が立った。立った途端、うなじに来た。斜めでも横でもなく、まっすぐ上から落ちてくる。
首をすくめて、それから、わざと同じ場所にもう一度立ってみた。同じところに同じだけ来る。手を伸ばして天井板の継ぎ目に当てると、指の背に冷たいものが乗った。
天井板はある。ある、というだけだ。屋根裏には何も入っていないのだろう。
この部屋の天井には点検口すら切っていなくて、つまり、上がどうなっているかを見た人間が、ここ何十年かいないということになる。
「……ここにいたのか、お前」
隅のほうを見たが、返事はなかった。じ、とも鳴らない。
こいつは、俺が半日かけて探していた場所に、先に立っていたことになる。痛いと言いながら動かなかったのは、たぶん、そういうことなのだろう。
呼べば来るし、追えば退く。それなのに、あそこだけは自分から選んで立っていた。
そこまで考えて、その先は考えないことにした。今日いちばん確かなのは、俺がそこへ向かって「邪魔だ」と言った、という一点だ。
◇◇◇
手が足りないので、外へ出た。畑の隅にコロがいて、井戸端にスイがいた。かまどの奥でエンが膨らんでいて、作業台の上にモクがいる。
声をかけると、それぞれの場所から短い返事が返ってくる。
「あら、あるじ。そちらは水の話ではございませんわ。わたくしにできることは、ないのですわ」
スイのはまだ理屈が通っている。水の話でないなら、この人にできることはない。ほかの三匹は、返事はするのに、誰もこちらへ来なかった。
土は畑にあり、火はかまどにあり、道具は作業台にある。持ち場の話をされれば、それまでだ。
寒いのが嫌なのだろう、と俺は思った。思ってから、去年の冬のことが引っかかった。あのときは、寒い晩ほど四つとも寄ってきた。
ストーブの前に並んで、誰も動かない夜が何度もあった。
引っかかったところで、答えが出るわけでもない。ただ、去年は四匹ともストーブの前にいたのだと思うと、なんだか可笑しかった。寒いのが嫌なだけの連中と、ひと冬いっしょに過ごしていたことになる。
俺は井戸端で手を洗って、土間へ入った。
土間へ戻って、ノートに三行だけ書いた。戸。框。
上。上には丸をつけた。丸をつけるのは自分の手で今日どうにもならないものにだけ、と去年の冬に決めてある。
部屋を出て、戸を閉める前に振り返った。細いのは、隅ではなく、さっきの場所に戻って立っていた。冷たい空気が落ちてくる、ちょうどその下だ。
「そこ、痛いんじゃなかったのか」
声をかけても、動かなかった。




