第212話
石にかかる前に、家を持ち上げておく必要があった。
持ち上げるといっても、指一本ぶんもない。据え直すあいだ、土台の重さが石にかからなければいい。剥がした床板の使えないほうから短いのを選び、三本を束にして立てる。
頭を土台の下へ入れて、足もとに平たい石をかませた。あとは楔だ。
薄い楔を差し込んで、金づちで叩く。床下では腕を振れないので、手首から先だけで打つ。音は、はじめは鈍い。
木の繊維が潰れて詰まっていくにつれて、だんだん高く、短くなる。高くなりきったところで手を止めた。まだ入るからと打ち続けると、今度は土台のほうを持ち上げてしまう。
束柱を横から手のひらで押した。動かない。上から体重をかけても、支えは逃げない。
ここを省くと、掘っている途中で土台が下りてくる。下りてきたら、俺は床下で挟まれる。省かない理由としては十分だった。
ところが掘りはじめて、しばらくもしないうちに、俺は考えを改めることになった。
凍ってはいない。床下の土は、外の地面と違って霜が降りない。ただ、凍っていないことと掘りやすいことは、まったく別だった。
スコップの刃を立てて体重をかけると、食い込む前に一度、跳ね返る。何十年もこの家の下で踏み固められて、締まりきっている。
腹ばいでは上から体重を乗せられないので、腕と肩だけで押すことになる。
途中でスコップを置いて、移植ごてに替えた。刃が短いぶん、力の向きが素直に伝わる。削り取る、掻き出す、脇へ寄せる。
掻き出した土は後ろへ送るしかなくて、送ったぶんだけ自分の逃げ場が減っていく。石のまわりを、少しずつ丸く広げていった。
二十センチも掘るころには、上着の中が汗になっていた。床下は寒いのに、動いているところだけ熱い。汗が冷えると一気に来るので、手ぬぐいを首に入れて、十分ごとに拭いた。
石が抜けたのは、掘りはじめて一時間近く経ってからだった。横へ転がすと、抜けたあとの穴の底だけ、土の色が違う。黒くて、やわらかい。指で押すと沈む。
「あるじ、そこ、みずのみちだったの。ずうっとむかしに」
「水の道か」
「うん。いまはとおってないの。でも、おぼえてるの」
覚えている、というのがどういうことかは分からないが、心当たりはあった。この上は、ちょうど屋根の谷の下だ。樋のなかった時代、落ちた雨は壁づたいにここへ来ていたのだろう。
何十年もかけて水が土をやわらかくして、そのぶん石が沈んだ。
やわらかい土は、掻き出せるだけ掻き出した。底を平らにさらって、そこへ砕石を入れる。
一度に入れてはいけない、と鞍馬さんに言われている。三度に分けて、そのつど突く。道具は端材の角材で、木口のほうで叩く。
最初の一層は、音が湿っている。突くたびに、ぐしゅ、と水を含んだような音がする。それが十回、二十回と続けるうちに、だんだん短くなって、最後には、こつ、と乾いた音に変わる。
音が変わったら次を入れる。教わったときは何のことか分からなかったが、床下でやってみると、変わる瞬間ははっきりしていた。
同じところを突きすぎても意味がないので、外から内へ回して突く。腕が上がらなくなって左手に持ち替えたが、左では音の変わり方が分からない。結局また右へ戻した。
三層目を突き終えて、袋の残りを見た。二つぶんで足りるだろうと踏んでいたが、これは怪しい。
据えるのは、鞍馬さんが沢の脇から出してくれた山石だ。昨日の夕方に軽トラで拾ってきて、四つとも土間に並べてある。持つと見た目より重く、表がざらついていて、手袋越しでも掌に引っかかる。
冬のうちに据えれば春までに土のほうが石をくわえこむ、と鞍馬さんは言っていた。水を吸って締まる石だからだそうだ。据えた次の季節に、石ではなく土が仕事をする。
そういう勘定は、俺にはまだ立てられない。
据わりのいい面を下にして、穴の底へ落とした。重くて短い音が一つ鳴って、それきり動かない。
天端に水平器を乗せる。玉が寄る。石を起こして、下の砕石を指で均して、また落とす。三度目で、玉が真ん中で止まった。
止まったが、束柱の足のほうが、今度は届かない。
石の高さを、上に合わせて調整したくなる。だが、それをやると突き固めたところを崩すことになる。
「束の足を切り詰めろ。石に合わせるのは、木のほうだがな」
剥がした口の上から、声が落ちてきた。
「分かってる。分かってるけど、石のほうが動かしやすそうに見えるんだよ」
「見えるだけだ」
そのとおりだった。俺は束柱を外して、床下の狭いところで鋸を引いた。挽けるのは片手だけで、しかも寝たままだ。
真っすぐ挽けているかは、当てて確かめるしかない。二度削って、三度目でようやく、石と足のあいだの隙間が消えた。
◇◇◇
一つ目が終わって床下から顔を出したときには、昼をだいぶ回っていた。
二つ目も手順は同じだ。同じだと分かっているぶん速いはずが、日が落ちるまでかかった。途中で外へ出て砕石をもう一袋開けたので、使ったのは三袋。
買い足さずに済んだのは、店で見当がつかないまま六つ積んでおいたからだ。
夕方の床下は、掘り返した土の匂いがこもっていた。冷たい匂いだ。冬の土の匂いは、夏の畑のそれとは別のものだと、今日初めて知った。
二つ目の足を詰め終えて、最後に、仮の支えを外しにかかった。
楔を逆から叩いて緩め、束を抜く。土台が石に乗る音は、ほとんどしなかった。しないのが正しいのだと思う。
束柱を横から手のひらで押した。逃げない。反対側も押した。
動かない。据えた二つの上で、家が動かなくなっている。残りの十は、動かないままでいてくれるほうの十だ。明日からは、上の話に戻れる。
這い出して、外の水道で手を洗った。指の関節が土の色に染まって、二度洗っても落ちない。爪の下に至っては、たぶん明日も残る。
空はもう暗くて、雪の面だけがまだ白かった。
立って背を伸ばすと、背骨が上から順に鳴った。それで、湯があることを思い出した。
◇◇◇
肩まで沈めたところで、腰の奥が先にほどけた。掘っているあいだは気づかなかったが、右の肩甲骨の下に一日ぶんの硬さが溜まっていて、それが湯のなかで一枚ずつ剥がれていく。
息を吐くと、湯気が顔の前でいったん止まって、それから上へ抜けた。
縁に頭を預けると、雪の面が、暗くなりきる手前の青を残していた。指の関節の土色は、湯のなかでは見えない。
土を掘った日の湯というのは、ずるいくらいうまい。うまい、というのは食い物に使う言葉だが、ほかの言い方が思いつかなかった。
◇◇◇
土間へ戻ると、細いのが道具箱の中で寝ていた。今日は一度も、床下へ下りてこなかった。
あの一度きりで、あとは何もしていない。それでいいのだろうと思う。役に立つかどうかを毎日測られるのは、俺だってごめんだ。
箱の縁に手をかけて、しばらく見ていた。帰り方を知らないと言ったやつが、俺の道具箱で寝ている。今日いちばん腑に落ちないのは、家が動かなくなったことではなく、そっちのほうだった。
「まあ、寝てるならいいか」




