第211話
雪は夜のうちに上がった。朝、空になった部屋へ入って、まだ薄暗いうちに水平器をもう一度置いた。玉は昨日と同じ端にいた。
二度置き直して、それでようやく、俺は認めることにした。
板を張り替えれば済む話ではない。板は上に乗っているだけで、傾いているのは、その下だ。下がどうなっているかを見ないまま新しい板を張ったら、まっすぐに張った床が、そのまま同じ向きへ傾く。
手間だけかけて、同じところへ戻ることになる。
朝飯を早めに切り上げて、金づちと平バールを持ってきた。
◇◇◇
剥がすのは、壁ぎわの四枚だけと決めた。全部剥がすのは、下を見てからでいい。
バールの爪を継ぎ目へ入れ、少しずつ起こしていく。一度に上げると板の縁が欠けるので、端から順に、隙間を広げながら進む。
釘が土台から離れるとき、鈍くて長い音が出た。木が鳴っているのか釘が鳴っているのか分からない音で、一本ごとに少しずつ違う。
素直に上がる板が一枚、途中でぱんと割れる板が一枚、爪が二度も滑って手のひらに痺れが残る板が二枚。抜けた釘は錆びて、頭だけ黒く太くなっていた。
何本か指で伸ばしてみて、伸びないので缶に落とした。
四枚上げると、肩が入るくらいの口が開いた。覗き込むと、下は黒い。懐中電灯を向けても、光の輪の外は、輪郭ごとどこかへ吸われている。
軍手をはめ直し、上着を着古したほうに替えた。埃よけに手ぬぐいを口へ回す。足から入って、腹ばいになった。
冷たい土の匂いがした。湿ってはいない。かびの匂いもしない。
潜る前にいちばん心配していたのがそこだったので、これは悪くない知らせだった。腐りが回っていれば、床の話では済まなくなる。
懐中電灯を口にくわえて進んだ。この持ち方は、思ったところを照らせない。首を向ければ光は向くが、手を伸ばした先は影になる。
見たいところと手を動かしたいところは、たいてい同じ場所だ。それに、くわえていると口が閉じないので、埃を吸う。
進み方も、当てが外れた。肘で這うつもりでいたが、根太が低くて肘が上がらない。結局、爪先で土を蹴って、腹で滑るようにして進むことになる。
三十センチ動くのに、ずいぶん息を使う。前の勤めの十五年で、腹で進むという移動の仕方をしたことは一度もなかった。体の使い方に、まだ知らない引き出しがあるものらしい。
束石は、手前から順に手で押していった。強く押すのではなく、体重を少しずつ預けて、返ってくるものを見る。
一つ目、動かない。二つ目も動かない。三つ目に手をかけたとき、石ではなく、石の下の土のほうが応えた。
押した方向へ、ほんのわずかに逃げる。
顔を近づけて見ると、その石だけ、天端が水平から寝ていた。上に乗っている束柱の足が、石から浮きかけている。浮いたぶんだけ土台が下がって、家全体が、そちらへ寄りたがっている。
「傾いてるのは板じゃない。下だ」
声に出したら、口の懐中電灯が落ちた。
光が壁のほうを向いて、そのまま転がって止まる。手を伸ばしたが、届くところにない。腹ばいのまま体をよじると、上の根太に肩がつかえた。
暗い。目を開けているのか閉じているのか、しばらく分からなかった。
その真ん中で、ぽっ、と青白いものが灯った。
床下じゅうが、いっぺんに浮き上がった。
懐中電灯の輪とは、まるで違う光り方だった。光が一方向から来ないので、影ができない。束石も、土の色も、根太の裏に残った墨の線も、そこにあるぶんだけ全部見えている。
奥の壁までの距離が、初めて目で測れた。広くて、低い。何十年も誰にも見られていなかった場所が、いま隅から隅まで明るい。
こいつは、床下の口を開けたときには近寄ってこなかった。開いた穴の手前で止まって、俺が入ったあとも下りてこなかった。それが、肘の横まで来ている。
「くらい。みえない」
「そうだな」
「だから、これ」
「お、助かる」
それだけ言って、俺は石へ手を戻した。礼を並べるほどのことでもないし、並べたところで通じる相手でもない。
光は、消えなかった。俺が場所を変えると、少し遅れてついてくる。近すぎず、遠すぎず、ちょうど手もとが見えるあたりで止まる。
加減をしているようには見えないのに、結果としては加減されている。
束石は全部で十二あった。押して、覗いて、天端の向きを見て、数える。腹ばいのまま向きを変えるのが面倒なので、いちばん奥まで行ってから、戻りながら数え直した。
二つ目に近い一つが、押すと同じように逃げる。それ以外の十は、びくともしない。
据え直すのは二つでいい。十二を全部やり直すのかと覚悟していたので、この数字が出たときは、正直、肩の力が抜けた。悪いところが二つしかないというより、あとの十が何十年ぶんも仕事をしてきた、ということだ。据えた人はもういない。
「あるじぃ。ここ、だれにもさわられてないの。ずうっと」
いつのまにか、コロが口のところから覗き込んでいた。触られていない土がどういう土なのかは分からないが、鍬も鋤も入ったことがない、という意味には取れる。
「掘りにくいってことか。それは、さっき腕で分かったよ」
「フン。家がそっちへ寄りたがっとる。石が仕事をしとらんだけだがな」
梁の上のやつは、床下まで降りてこないくせに、こういうときだけ正しいことを言う。
◇◇◇
這い出して、庭で埃を払った。上着を裏返して振ると、白い粉が雪の上に落ちて、そこだけ灰色になった。
伸びをした拍子に、直売所の向こうが目に入った。昨日、屋根の上から見た黒い点が、まだそこにある。
今日は、行った。昨日降ったぶんの雪を踏んで、直売所の脇を抜けて、祠跡の前まで。
石畳は、畳二枚ぶん。その真ん中あたりだけ、雪が丸く抜けていた。幅は、両手を広げたくらい。
抜けた縁は融けた跡でぬかるんで、灰色になっている。それなのに、抜けた中は乾いていた。
この前ここが融けたときは、丸みと細長い張り出しのある、人とも獣ともつかない形だった。指でなぞって大きさを測って、それが半日で崩れて、ただの水になった。
今日のこれは丸くて、しかも縁が崩れていない。
手袋を外して触ると、冷たくない。温かくもないが、この気温の石が持っていていい温度ではなかった。指を離してから、離した指のほうを見た。濡れてもいない。
ここへ品物を置くと、夜のうちに消えて、朝には別のものが載っている。それが当たり前になって、俺は近ごろ、置くときに石そのものを見ていなかった。
振り返ると、細いのは直売所の角のところで止まっていた。
こっちへは来ない。土間の框で止まっていたときと、止まり方がよく似ている。あのときは段差があった。
ここには段差も敷居も何もなくて、ただ雪の上に、来ない線が一本引いてある。
「来ないのか」
答えはなかった。じ、とも鳴らない。鳴らないまま、直売所の角の陰から、こちらを見ているだけだった。
俺は手袋をはめ直して、戻った。床下の口は、板を戻さずに開けたままにしてある。明日は石を掘る。
それだけ口に出して、道具を土間へ運んだ。
板を戻していない潜り口の奥が、覗き込むと、まだ薄く青かった。




