第210話
起きたら雪だった。粒が細かくて、風がないので、まっすぐ落ちてくる。こういう降り方は長い。
ぼた雪なら半日で上がるが、粉のようなのが音もなく落ちてくる日は、たいてい夜まで続く。二度目の冬にして、そのくらいは見当がつくようになった。
板は濡らせない。金物も出せない。床下へ潜れば、上げた土をそのまま濡らすことになる。
朝の飯を食い終わるころには、今日は一日ぶん止まると分かっていた。
止まると分かった日の午前は、去年なら手持ち無沙汰だった。今年は、やることの書き出しが手もとにある。上から順に眺めていって、雪の日にしかできないものが一つあることに気づいた。
雪下ろしの段取りだ。去年の冬に縁側で決めて、紙に書いて、線を引いて消した。消したあとで一度だけ、実際に下ろしている。
ただしあれは、積もりきってから慌てて上がった日のことだ。
道具は去年のうちに土間へ集めてある。底に金具の出た長靴、柄の長いスノーダンプ、それにロープが一巻き。長靴は履いてみたら金具が二本抜けていた。
本降りになる前に買い替えだ。スノーダンプは柄の付け根に錆が出ていたので、油を差して布で拭いた。ロープは命綱のつもりで買ったきり、去年は結び方を調べる暇もなく上がってしまった。
道具を揃えるところまでは、去年の俺もやっている。やっていないのは、積もる前に一度上がってみることだ。
◇◇◇
まず梯子だった。
母屋の南側に立てかけると、桟の据わりがいい。地面が平らで、軒も低い。去年もここに立てた。
三段ほど上がって下を見て、去年の往生を思い出した。この位置は、落とした雪がそのまま溜まる真下だ。屋根の一列を落としただけで足もとが埋まって、梯子ごと動かせなくなる。
降ろした雪を運ぶ道具は、そのとき屋根の上にある。
縁側で図を描いたときには、母屋の形と梯子の位置しか描いていなかった。落ちた雪がどこへ行くかは、一本の線も引いていない。
図というのは、描いた本人が考えたところまでしか描けない。
降りて、東へ回した。ここは軒が高い。梯子を精いっぱい立てても、桟の数が足りない。
三箇所目で、ようやく落ち着いた。北西の、離れの壁ぎわ。日が回らないので地面が凍って硬く、桟が沈まない。
それに、落とした雪を捨てる先が、そのまま斜面になっている。三度目でようやく、はじめから決まっていたような場所に行き当たった。
梯子を上りきって、まずロープを煙突の根元へ回し、腰に結んだ。結び目は、去年の秋に鉄本さんの荷締めを見て覚えたやつだ。
◇◇◇
雪の乗った屋根は、去年と同じ屋根には見えなかった。
瓦ではなく、古いトタンを葺き替えたものが乗っている。去年は下ろすのに必死で、踏んだ感触までは覚えていない。踏むと、雪の下で乾いた音が返ってくる。
一歩目で長靴の底が滑って、腹の底が浮いた。抜けている金具二本ぶんだ、と足の裏で分かる。二歩目からは膝を曲げて、踵から置くようにした。
手袋越しに屋根へ手をつくと、雪の冷たさとは別の冷たさが来る。下から来る、板そのものの芯の冷たさだ。
雪止めは効いている。軒の手前で雪が堰き止められて、そこだけ厚くなり、下の縁から氷柱が三本下がっていた。効いているぶん、屋根の端に荷が集まっているということでもある。
煙突の根元へ回った。板金が屋根に被さっているところの、南寄りの縁が、わずかに浮いている。指を入れると、第一関節までは入った。
雨のときにここから入るかどうかは、入ってみないと分からない。今日どうこうする話ではないので、春に見る、と頭のなかへ入れておく。
南と北で、雪の残り方がまるで違った。南は日が当たって、表面が一度融けて凍り直している。北は降ったままの粉のまま乗っている。
「フン。北側は残るぞ。日が回らん」
「見りゃ分かる。触るとぜんぜん違うんだよな」
落とす方角も、上がってみて初めて決まった。脱衣所の上には落とせない。屋根が下にあるからだ。
露天風呂の側も駄目で、湯船に落とせば掃除が一日仕事になる。落とせるのは西の斜面側と、北の離れの脇だけだった。二方向しかない。
方角を決めているあいだ、下から声が上がってきた。庭のほうで雪に映った赤いのがちらちら動いていて、その足もとで、コロが同じところを行ったり来たりしている。
「おう、あるじ! 落ちたら、オレが受け止めてやるぜ!」
「受け止められないだろ、お前」
「やってみなきゃ分かんねえだろ!」
やってみないと分からないことを、屋根の上で試すつもりはない。
◇◇◇
落とす方角まで決まったところで、最後に、どれだけ積もっているかを測った。
スノーダンプの柄を刺して、雪の面のところへ指をかける。抜いて、印の位置を尺で当てた。二十に届かない。
棟の近くはもう少しあるが、それでも二十五かそこらだ。
去年決めた基準は、五十を超えたら下ろす、半分まで来たら準備をする、だった。決めたときはずいぶん多い気がしたし、去年実際に上がった日は、たしかにそのくらい乗っていた。
屋根の上で見ると、そう無茶な数字でもない。
「今日は、下ろさなくていい」
声に出した。出さないと、なんとなく気が済まなかった。
やらない、と決めるほうが、やるより難しい。都会にいたころの俺は、手が空いていると何か足したくなって、足したぶんだけ後で自分の首を絞めていた。
梯子の位置が分かって、落とす方角が決まって、二十センチだと確かめた。次に本当に必要になった日、俺は迷わずに北西へ梯子を立てられる。
六十点だ。
屋根の雪は一粒も減っていないし、今日は何ひとつ直していない。それでも、いつか来る一日の仕事が半分になった。膝を抱えて座っていると、腹のあたりがじんわりあたたかかった。
棟の近くに座り込んだ。腰のロープが、たるんだまま雪の上へ落ちている。
雪は音を吸う。谷のほうから風の音だけが来て、それ以外は何もない。自分の呼吸が、耳のすぐそばで鳴っている。
集落の屋根がいくつも白くなって、そのあいだから煙が細く立っていた。風がないので、煙は上がらずに、屋根に沿って下へ落ちていく。段々畑は輪郭だけになっていた。
その静かさの底で、ばちん、と鳴った。
肩が跳ねた。しばらく来ていなかったので、耳が構えていなかった。音は下からだった。
軒下でもなければ、土間でもない。直売所の向こう、祠跡のあたりから来ている。あそこで鳴るのは、初めてだ。
立ち上がって、そちらを見た。雪の面に、黒い点が一つだけある。周りが白いぶん、そこだけが穴のように見えた。
降りようと思って、途中でやめた。ここは屋根の上で、足もとは雪で、俺は今日、下ろさないと決めたばかりだ。急いで梯子に足をかけるのは、その決め方といちばん相性が悪い。
俺は座り直して、白くなった谷をもう一度眺めた。膝のあたりから雪の冷たさが上がってくるのに、しばらく立つ気にならなかった。祠跡の黒い点は、消えていなかった。




