第209話
朝いちばんに、土間の隅の箱を開けた。三日置いたまま、跨いで歩いていたやつだ。
経木の蓋を外すと、新聞紙にくるまれた黒いものが重ねてあった。膳だった。脚のついた四角い膳が、五客。
新聞は日付のところが破れていて、残っている面に、俺の生まれるずっと前の相撲の番付が載っている。一枚ずつ剥がしていくと、漆の表に細かい傷が縦横に入っていて、縁の一箇所は下地が見えるまで欠けていた。
指を滑らせると、そこだけ引っかかる。艶は落ちているのに、拭くと下から鈍く光った。
五客そろって同じだけ傷んでいる。毎日出して、毎日下げていたということだ。使われていたものを引き継ぐのは、悪くない。
五客というのが、何とも言えない数だ。数えているうちに、少しおかしくなった。四なら家族のぶんだし、六なら来客ぶんも見込んだ数に見える。五は、その真ん中で止まっている。
この家に何人いたのかを、俺はまだ誰にも訊いていない。
客に出している膳なら、もう四つある。同じ形ではないし、こちらのほうがひと回り小さい。それでも、客が重なった日に数で困ったことを思えば、洗って拭けば使えるものを捨てる理由はなかった。膳は土間の棚へ上げた。
◇◇◇
そこからは、ひたすら運び出しだった。空の一斗缶が四つ。丸めた古簾が二本。
藁縄がひと束。それに、割れた火鉢の欠けが半分だけ。捨てるものと、乾かしてから決めるものと、使うものに分けて、土間と縁側に並べた。
板の間なので、畳は一枚も出てこない。
持ち上げるものはどれも軽い。軽いのに、腰に来るのは数のせいだ。
気づけば、框をまたぐときの足が、だんだん高く上がらなくなっていた。二十往復は超えている。腰を伸ばすと、背中で何かが小さく鳴った。
奥へ進むと、俺が運び込んだ覚えのないものばかりになった。
ブリキを張った茶箱が二つ。蓋を開けると、かびと乾いた茶の混じった匂いが上がってきた。中は空で、底に茶葉の粉が薄く残っている。
乾物を入れるにはちょうどいい。足もとで、コロが箱の縁に体を寄せていた。
「ねえねえ、あるじ。このはこ、つちのにおいがするの」
「土か。茶の匂いだと思ったけどな」
「したのほう。ずうっとしたのほうが、つちなの」
その隣に、桐の箱がひとつ。中身は掛け軸だった。紐を解く手前で、俺の手が止まった。
「フン。桐だ。まだ生きとる」
頭の上でモクが言った。生きているのは箱のほうであって、中身の値打ちの話ではない。開いてみると、山と、川らしきものと、細い字が書いてある。
俺には読めないし、良し悪しも分からない。分からないものを、分からないまま捨てるのはさすがに気が引けた。
「これは、区長さんに聞いてみるか」
言ってから、そうするのがいちばん早いと思い直した。この家に誰がいたかを知っているのは、あの人たちだ。行き先を決めるのも、たぶん俺の役目ではない。
桐の箱は紐を結び直して、母屋の押し入れの上段へ戻した。
最後に出てきたのが、湯たんぽだった。 金属の、波打った楕円のやつだ。表は白く曇っていて、爪で擦ると擦った筋だけ光る。持つと、大きさのわりにひんやり重い。
栓を回すと、きゅ、と乾いた音が鳴った。ゴムが硬くなって、締めた形のまま固まっている。
「これは、なに」
久しぶりに聞いた。この数日、こいつは物の名を訊かなくなっていた。
「湯たんぽだ。湯を入れて、布でくるんで、抱いて寝る」
言いながら、実物を見るのは自分も初めてだと気づいた。電気毛布なら実家にあったし、都会の部屋では貼るやつを腰に貼っていた。これは朝には冷めている。
朝には冷めているものを、わざわざ毎晩用意する。
「あらあら。お湯を入れるものですわね。わたくし、そういう道具は好きですのよ」
「気に入ったか。漏れるかもしれないぞ」
「漏れるかどうかは、お湯を入れれば分かりますわ」
それはそのとおりなので、湯たんぽは土間の流しの脇へ置いた。今日は運び出しで手がふさがっている。
◇◇◇
昼を回るころ、部屋が空になった。
何もない板の間は、荷が入っていたときより広くて、そのぶん寒かった。埃を掃き出して、雑巾で二度拭くと、板の目がはっきり出てくる。
北側の一角だけ色が濃い。乾き方が違うのか、汚れなのか、上から見ただけでは分からなかった。
立ったついでに、天井を見た。梁と天井板があるだけで、電球の口がどこにもない。 梁のあたりに白い碍子が二つ残っていて、そこから伸びていたはずの線が、途中で切られている。切り口は毛羽立って、被覆が黒く硬くなっていた。
新しく切った断面ではない。壁のほうも一周見たが、差し込みは一つもなかった。前に立っていた箪笥の裏まで手を入れて探して、それでも出てこない。
この部屋には、線が来ていない。外してあるのではなく、そもそも来ていない。母屋の配線は台所と居間と廊下で終わっていて、ここは端から数のうちに入っていなかったということだ。
これは電気屋を呼ぶ話だ。俺の手には負えないし、負えると思ってはいけないところでもある。頭のなかの紙に、また一行増えた。
それから、土間の道具箱から水平器を出してきた。去年、棚を吊るときに買って、それきり道具箱の底で油紙にくるまっていたやつだ。
部屋の真ん中に置く。緑の液のなかで、玉が迷いなく滑って、端で止まった。目盛りの外まで行っている。
一度目は置き方が悪かったのだと思ったが、置き直しても、向きを変えても、玉は同じ側へ行く。
試しに鉛筆を床に置いてみた。転がる。速くはない。
速くはないが、迷わない。部屋のどこに置いても、鉛筆はいつも同じ隅へ向かって、同じ速さで転がっていく。
板を踏んで歩いた。北の一角に来ると、足の裏に返ってくるものが変わる。沈むというより、下に何もない感じの音がする。
踵で二度、爪先で二度。同じところが同じように鳴った。
張り替えれば済む話だと思っていた。この音は、たぶん、そういう音ではない。
俺はしゃがんで、板の継ぎ目に指を当てた。冷たい空気が、下から細く上がってくる。傾いているのが板なら、剥がして張り直せば終わる話だ。そうでないなら、終わらない。
細いのは、少し離れたところで見ていた。何も訊かない。訊かないので、こちらも何も言わないまま、しばらく指を当てていた。
「……床下、か」




