第21話
初夏の朝は、露と鳥の声から始まる。
顔を洗って、まだ冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。畑の野菜に水をやるのが、この頃の俺の一日の始まりだ。手桶を提げて段々畑へ下りていく足取りは、我ながらすっかり板についてきた。
畝の角を曲がったところで、俺の足は、ぴたりと止まった。
……なんだ、これは。
昨日まで青々としていた夏野菜の畑が、めちゃくちゃに荒らされている。丹精した畝は掘り返され、赤く色づき始めたトマトは食い散らかされ、立てたばかりの支柱がなぎ倒されて、泥にまみれている。
「うわ、これは……やられたな」
思わず声が漏れた。手桶を提げたまま、しばらく呆然と立ち尽くす。
都会のマンションで暮らしていた頃なら、絶対に味わうことのなかった光景だ。ベランダのプランターを荒らす相手なんて、せいぜい鳩くらいのものだった。
一瞬、胸の奥がしゅんと縮んだ。手をかけた分だけ、荒らされた畝は痛々しく見える。
けれど、その気持ちは、意外なほどあっさり通り過ぎていった。
まあ、そうだよな、と思い直す。ここは山だ。しかも、俺があとから山を借りて、勝手に畑を作らせてもらっている側なのだ。先に住んでいたのは、獣たちのほうである。
「山を借りて暮らしてるんだ、こういうもんか」
誰にともなく呟いて、俺は腕まくりをした。嘆いていても、トマトは元に戻らない。
◇◇◇
まずは被害の把握から、と段取りを組む。こういう時、つい現状確認から入ってしまうのは、元SEの抜けない癖だ。
しゃがんで、畑をぐるりと見て回る。トマトは半分ほどやられ、キュウリの蔓は引きずり回され、ナスは案外無事だ。掘り返されているのは、根菜を植えた一角に集中している。
なるほど、狙いは土の中の芋か、と見当をつける。犯人は、土を掘るのが得意な獣ということだ。
倒れた支柱を一本ずつ拾い上げ、泥を払って立て直していく。掘り返された畝は、両手で土を寄せて、もう一度なだらかに整える。無事だった苗は、根が浮いていないか、一株ずつ確かめていく。
黙々と手を動かしていると、不思議と、荒らされた腹立ちよりも、直していく手応えのほうが勝ってきた。
「都会じゃ考えられない問題だけど、不思議と腹は立たないな」
泥だらけの手で額の汗を拭って、俺は苦笑した。
むしろ、生きてる感じがする。パソコンの前で降ってくる無理難題に胃を痛めていた頃より、掘り返された畝を直すこの朝のほうが、ずっと血が通っている気がするのだ。
相手は腹が減って、目の前の畑に手を出した。ただ、それだけのことだ。恨むほうが、どうかしている。こっちはこっちで、食われないように工夫すればいい。それで貸し借りなしだろう。
妙なもので、直しているそばから、寄せた土がやけに素直に手に馴染む。荒れた畑のわりに、指先に伝わってくる土は、しっとりと温かい。
「まあ、いい土なんだろうな、うちの畑は」
そう独りごちて、俺は次の畝へ移った。
◇◇◇
ひととおり直し終えて、腰を伸ばしたときだった。
掘り返された畝の際、やわらかい土の上に、点々と足跡が残っているのに気づいた。
しゃがんで、まじまじと見つめる。小さな二つ割れの蹄は、たぶん猪だ。その脇に散らばる、細長い手のような跡は、猿だろう。このあたりは昔から獣が多いと、麓の集落でも聞いていた。
なるほど、猪と猿の合わせ技か、と一人で納得しかけて——俺は、その中の一つに目を止めた。
ひときわ大きい足跡が、ぽつんと一つだけ、混じっている。
猪の蹄でも、猿の手でもない。五本の指がはっきりと開いて、その先には、爪の跡らしきものまである。大きさは、俺の手のひらを軽く超えるほどだ。
「熊……にしては、変な形だな」
俺は首をかしげた。熊の足跡なら図鑑で見たことがあるが、こんな指の形はしていない。
「こんな足跡、図鑑でも見たことないぞ」
どこかで見たような、という引っかかりが、胸の隅をかすめていく。そういえば、直売所の前の土にも、前に似たような跡があった気がする。
まあ、山は広い。俺の知らない獣の一匹や二匹、いたところで、なんの不思議もない。
そう自分を納得させて、俺は立ち上がった。荒らされた畑をもう一度見渡して、ひとつ、大きく伸びをする。
「さて。こうなったら、次はこいつら対策だな」
嘆くより、工夫するほうが、性に合っている。獣害という名の宿題を前に、俺の頭はもう、次の段取りを組み始めていた。




