第20話
日が傾いて、山の稜線が金色に縁どられる頃。俺は一日の仕事を切り上げて、縁側に腰を下ろした。
冷やしておいた麦茶を、湯呑みに注ぐ。ひと口飲むと、井戸で冷えた甘みが喉を滑り落ちて、火照った体の奥からすっと熱が抜けていった。
昼のあいだ肌を刺していた日差しが、いつのまにか角を落として、やわらかい橙になっている。畑の向こうから、ぬるい風がひと吹き、俺の首筋を撫でて抜けていく。
風鈴が、ちりん、と鳴った。
軒に吊るしたその音を聞きながら、俺はぼんやりと庭を眺める。夕方の山は、音がひとつずつ立ってくる時間だ。ひぐらしの声、遠くの沢の水音、竹林の葉ずれ。都会にいた頃は、こんな音の一つも耳に入らなかった。
膝の上で手を組んで、俺は改めて、目の前の景色を見渡した。
三ヶ月前、この山を初めて登ってきた日のことを、俺はまだ鮮明に覚えている。
あの時ここにあったのは、苔むした瓦と、歪んだ雨戸と、軒下の見事な蜘蛛の巣だけだった。荒れ放題の段々畑には雑草が腰まで伸びて、庭の隅には傾いたボロ棚がひとつ。全財産をはたいた結果がこれかと、我ながら呆れたものだ。
それが、どうだ。
雨戸はすべらかに動き、縁側の板は俺の尻をしっかり受け止めている。段々畑には青々とした夏野菜が籠を待ち、庭の隅には、我ながらよくできた無人直売所が、品書きの札まで下げて夕日に照らされている。
住める。気持ちいい。おまけに、なぜか少し稼げてすらいる。
「……いい買い物したなあ、この山」
しみじみと、声に出していた。三ヶ月前の、貯金通帳とにらめっこして胃を痛めていた自分に、教えてやりたいくらいだ。おまえの博打は、案外悪くなかったぞ、と。
思えば、この一夏でずいぶん色々なことができるようになった。
かまどで飯を炊けるようになった。雨戸も網戸も直せるようになった。畑を起こし、苗を植え、収穫し、余った分は保存食に回せるようにもなった。五右衛門風呂を焚いて、湯上がりに夜風を浴びる贅沢も覚えた。
どれも、都会のデスクにしがみついていた頃には、縁もゆかりもなかった手仕事ばかりだ。マニュアルを読み解くのだけは昔から得意だったから、その一点だけが、こんな山奥で妙に役に立っている。人生、何が武器になるかわからない。
ふと、板張りに映る自分の影を見て、俺は小さく笑った。
この頃、鏡を覗くたびに思うことがある。顔から、力みが抜けたのだ。
会社にいた頃は、眉間にいつも縦じわが寄っていて、肩は耳のあたりまで上がっていた。歯を食いしばりすぎて、朝起きると顎が痛い日もあった。あの頃の俺の顔は、たぶん、笑い方をどこかに置き忘れていた。
それが今は、朝、鳥の声で目が覚めて、伸びをして、ああ今日も晴れたなと思うだけで、勝手に口元がゆるんでいる。誰にも急かされず、自分の手で何かを作って、うまい飯を食って眠る。ただそれだけのことが、あの街ではどうしてもできなかった。
その、ただそれだけが、ここには全部ある。
「三ヶ月前の俺に、教えてやりたいよ」
もう一度、同じことを呟いてしまった。よほど嬉しいらしい。まあ、いいじゃないか。ひとり暮らしの特権だ。誰に聞かれるわけでもない。
◇◇◇
同じ夕暮れを、遠い遠い場所の空も分け合っていた。
痩せた土地と魔獣の脅威に、長く苦しめられてきた辺境のネル村。その村は今、久しぶりの穏やかな夕餉の支度に包まれていた。
村外れの辻に建つ、小さな石の祠。その前に、行商の若者ガロが膝をついている。
供物台には、村の畑では決して育たない、瑞々しい野菜が今日も山と積まれていた。赤く艶めいた実、みずみずしい緑の葉。腐ることを知らぬ、力に満ちた恵み。ガロはそれを、いつものように恭しく籠へ移していく。
この数ヶ月で、村はすっかり変わった。
飢えて頬のこけていた子どもたちは、今では走り回るだけの力を取り戻した。瑞々しい野菜は病人の熱を下げ、腐らぬ糧は蓄えとなって、村人の顔から、明日を憂う暗い影が消えていった。祠の主さまの恵みが、この村を、丸ごと救ったのだ。
ガロは籠を脇に置き、祠に向かって、深く頭を垂れた。
「祠の主さま。おかげで、村のみんなが笑うようになりました」
その声は、震えるほどに切実だった。
どこの、どんなお方かも知らない。姿を見たこともない。ただ、この祠を通して、絶えることなく恵みを授けてくださる、遠い主さま。
「どうか——どうか、この縁が、ずっと続きますように」
ガロは長いこと、そのまま手を合わせていた。
その恵みを祠に置いた張本人が、山ひとつ向こうの縁側で、冷えた麦茶をすすりながら「いい買い物したなあ」とのんきに笑っている、ただの少し疲れの抜けた元会社員だとは。
ネル村の誰ひとりとして、知る由もなかった。
◇◇◇
ひぐらしの声が、ひときわ大きくなった。
湯呑みの麦茶を飲み干して、俺は庭の直売所へ足を向けた。夕方のうちに、翌朝ぶんの野菜を並べておくのが、この頃の日課だ。
もいだばかりのトマトとキュウリ、それに昨日仕込んだ浅漬けを少し。棚に並べて、料金箱の蓋を開ける。
中を覗いて、俺は思わず苦笑した。
また、増えている。見慣れないコインが幾枚も、その上に、艶やかな細工の施された立派なやつまで交じっている。溜まりに溜まって、うちの小物入れはとっくに満杯だ。
「相変わらず、律儀なお客さんだ」
毎回きっちり対価を置いて、黙って野菜を持っていく。顔も名前も知らないままの、静かなやりとり。それがいつのまにか、俺の暮らしの、いちばん不思議で、いちばん温かい一部になっていた。
考えてみれば、妙な話だ。
俺はただ、食べきれない野菜を並べているだけ。ちょっと直した棚に、ちょっと余った作物を置いているだけ。それなのに、顔の見えない誰かが、こんなにも喜んで通ってくれる。
「俺は、ただ、好きに暮らしてるだけなんだけどな」
空になった料金箱の蓋を、そっと閉めながら呟く。
「なんでか、みんな喜んでくれる。ありがたい話だ」
会社にいた頃は、身を粉にして働いても、自分の仕事が誰の役に立っているのか、ついに最後まで見えなかった。それに引きかえ、顔も知らない相手が黙って喜んでくれるこの暮らしには、確かな手触りがある。
棚を離れようとして、ふと、俺は足を止めた。
棚の前の、やわらかい土の上。そこに、見慣れない足跡がいくつも残っている。人のものとは違う、大きくて、形の違う跡。しかも、この前見た時より、明らかに数が増えていた。
しゃがんで、まじまじと見つめる。熊のものとも違う。犬でも、猪でもない。こんな形の足跡は、生まれてこのかた見たことがなかった。
その時、視界の隅で、庭の草むらが、ふわりと光った。
顔を上げると、夕闇の降りはじめた庭の隅に、小さな光が四つ、ぽつ、ぽつ、と灯っている。蛍にしては色が違う。赤、青、緑、それに土色。まるで四色の灯りが、俺の様子をそっと窺うように、寄り添って揺れていた。
「……やっぱり、いるよなあ、なんか」
目をこすってみても、光は消えない。けれど不思議と、怖くはなかった。むしろ、どこかくすぐったいような、懐かれているような、そんな心地さえする。
俺は立ち上がって、暮れていく空を見上げた。
対価は日ごとに増えて、種類も、だんだん豪華になっていく。足跡も増える。庭には四つの光。この三ヶ月で、俺の暮らしは、ずいぶん賑やかになったものだ。
「なんだか、お客さんが増えてる気がする」
風鈴が、ちりん、と鳴った。
俺はひとり、暮れなずむ山を眺めて、静かに呟いた。
「この山、これから、どうなるんだろう」
◇◇◇
「これから、どうなるんだろう」
誠が縁側でそう呟いた、その頭のすぐ上。屋根瓦のふちに、四つの小さな光がちんまりと並んで揺れていた。
赤、青、緑、土色。この山にずっと棲んできた、四匹の精霊たちだ。
「あのな、あいつ、まだオレたちに気づいてねえんだぜ」
エンが得意げに尻尾の火を揺らす。かまどの火も、冷めにくい湯も、ぷりぷりの野菜も、ぜんぶ自分たちのしわざだというのに。誠ときたら、今日も「いい山だ」と笑うばかりだ。
「いいのですわ。あるじが気づかなくても。……ちゃんと、しあわせそうですもの」
「はたけも、おうちも、どんどん元気になってくの。うれしいなの」
スイがぷるりと揺れ、コロが苔玉の身を弾ませる。モクは腕を組んだまま、フン、と鼻を鳴らした。けれど、その渋い顔は、いつもよりずっとやわらかい。
——なあ、あいつ、ここに、いてくれっかな。
あの夜エンがこぼした願いを、四匹はまだ覚えている。ひと夏が過ぎて、誠はすっかりこの山に根を張った。願いは、静かに、叶っていた。
「いてくれたな」
「これからも、ずっと、ですわ」
風鈴が、ちりん、と鳴る。四つの光は、そっと寄り添って瞬いた。誠にはまだ見えない。けれど、もうすぐ——そんな予感だけが、夕闇にやわらかく灯っていた。
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あとがき
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