第207話
昨日のうちに運び出した荷が、土間の隅に置いたままになっている。段ボールでも木箱でもない、経木を編んだような四角い箱で、抱えると腕のなかでかさかさ鳴った。
中身はまだ見ていない。今日は人が来る日なので、通り道だけ空けて、壁ぎわへ寄せておいた。
昼前に、坂の下から軽トラのエンジンが上がってきた。長物を積んだときの、後ろの跳ね方をしている。荷が重いと坂の途中で音が粘るが、今日は粘っていない。
誰が来たかは、たいてい坂の音で分かるようになった。分かるようになったのはこの秋あたりからだ。
森野さんは荷台の煽りを下ろした。話より先に、匂いのほうが来た。挽いたばかりの生木と鋸屑の匂いが、雪の上ではよけいにはっきりする。
荷台には見本の板が三枚だけ積んであって、雪よけの毛布が半分ずり落ちていた。
「厚みは、二十七で足りますか」
俺が訊くと、森野さんは板の小口へ目を落とした。
「二十七あれば十分です。三十だと、今の敷居に対して高くなってしまうので」
床に張るぶんと、剥がしたあとに継ぐぶん。枚数を言うと、森野さんは三枚のうちの一枚を抜いて、指の腹で木口を撫でた。
年輪の詰まったほうを上にして、日の当たる側へ向ける。それから、これは去年の冬に伐った木ですと言った。冬の木は水を上げていないから、乾いたあとに狂いにくい。
夏に伐ったものは、いくら寝かせても同じようにはならないという。去年の冬に倒した木が、今ようやく使えるようになる。
段取りの単位が、俺の頭にあるものより一つ大きい。俺は先週から床のことを考えはじめて、それでもずいぶん腰を据えたつもりでいた。
前の勤めでは、来期の話をしているだけで先を見ている気になれた。実際に動かしていたのは、せいぜい三か月先までだ。この人は、去年の冬に倒した木の話を、今日の板の話としてしている。
「今年伐ったぶんは、来年の秋ですね」
「一年、待つんですか」
「木のほうは、待っているつもりもないでしょうけどね」
話の途中で、森野さんの目が下がった。俺の膝の高さで止まっている。細いのが、いつのまにか足もとまで来ていた。
「結城さん。……その子は」
「その子」
森野さんは半分だけ言葉を出して、そこで止めた。口をつぐんだというより、続きが見つからなかった顔だった。それから木口へ目を戻した。
「——いえ。板は、乾いたのを回しますよ。今日中に挽いておきます」
「森野さん。今の、続きは」
「今日中に挽いておきます」
同じことを二度言われた。笑ってごまかすのでもなく、首を振るのでもない。ただ、板の話に戻っただけだった。俺も、それ以上は訊けなかった。
運転席に乗ってから、森野さんはもう一度こちらを見た。俺の顔ではなく、その少し下を見ていた。
◇◇◇
軽トラが坂を下りきらないうちに、下から別のエンジンが上がってきた。入れ違うかたちになったのは、たぶん偶然だ。この時期は、誰の手も似たような空き方をする。
鉄本さんは土間へ入って、ひと呼吸置いた。それから框の下へ目をやって、一言だけ言った。
「増えたな」
「分かるんですか」
「掛け金の話をしに来たんだ」
答えになっていない。なっていないことを本人も分かっている口ぶりで、それきり金物の話になった。戸の掛け金と引手、床下で使うぶんの釘、それに座金。
今ある掛け金は前の持ち主のもので、爪の当たるところがすっかり丸くなっていた。掛けてから指で押すと、そのまま外れる。
人を泊める部屋の戸としては、そこが引っかかっていた。
俺が寸法を口で言おうとすると、手のひらに冷たいものを押しつけられた。
「ハッ。結城、寸法だ。今そこで測れ。あとで聞くのはナシだぞ」
渡された曲尺は、俺のものより重くて、目盛りが深く切ってあった。指で押さえると、切った溝に爪が引っかかる。框の高さ、板戸の幅、戸当たりの厚み。
一つ測るたびに読み上げると、鉄本さんは腕を組んだまま短い音を出した。うむとも、ふんとも聞き分けられない、鼻から抜けるだけの音だ。
二度目に測り直させられたのは戸当たりで、俺が縁のいちばん厚いところを読んだからだった。金物を当てるのは擦り減った側だ、と言われた。
確かにそのとおりだった。
教わったことが、その場で腑に落ちる。この感じが好きで、俺はこの人に寸法を読み上げさせられている節がある。
数字は木っ端に鉛筆で控えた。紙だと土間では濡れる。これも去年、同じことを言われて覚えたやり方だ。
書いた木っ端は捨てずに柱へ立てかけておくと、次に同じところを直すときに出てくる。
帰りぎわ、鉄本さんは荷台に手をかけたところで一度だけ振り返って、土間の奥を見た。
◇◇◇
昼を過ぎて、三人目が来た。この人は足音がしないので、顔を上げると、もう立っている。
鞍馬さんは土間へ入るとき、鴨居のところで頭を下げる。入ってから背を伸ばすと、梁までがずいぶん近くなって、そのぶん影が長く落ちた。
土間の床に伸びたその影が、幅をひとまわり狭く見せる。その影の先が、一度だけ足もとをかすめた。目が下がって、また上がる。それだけだった。
「ふむ。束石なら、儂が見立てたものが残っておるぞ」
「余りが、あるんですか」
「余らせておいたのだ。石は余らせておくものだ」
言い方に迷いがない。湯を据えたときに要るだけ切って、残りは沢の脇に伏せてあるという。伏せておくと雨で洗われて、据えたときの馴染みがいいらしい。
切って余った石を、わざわざ何年も雨に当てておく。この人の話は、いつも俺の時間の目盛りより長いほうへ伸びていく。
いくつ要るのかは、床下を見ていないので答えられなかった。分からないと言うと、鞍馬さんは指を四本立てた。割れることがあるからだそうだ。
割れてから取りに戻る時間のほうが高い、と言われると、返す言葉がない。
「外の仕事は、根雪になれば手が出せんぞ。やるなら今のうちだ、結城」
「今のうち、ですか」
「石を動かす道が凍る。そうなれば春まで待つことになる。待つのは構わんが、待つと決めてから待て」
鞍馬さんはそれだけ言って、来たときと同じ静かさで帰っていった。坂へ出たところで一度、屋根の下を見上げた。見上げた先は、たぶん梁ではなかった。
◇◇◇
三人が三方向へ帰った。
土間が急に広い。
土間に残ったのは、板の寸法と、木っ端の数字と、それから、何も言われなかったぶんの静かさだった。
この三人なら、同じ土間に居合わせても互いに気を遣わない。誰が先に座るとか、どちらが目上だとかを、そもそも数えない人たちだ。
先日の客ふたりが、寝る場所の話になった途端に他人の顔へ戻ったのとは、そこがまるで違う。ありがたいことだと何度も思ってきたのに、今日はうまく味わえなかった。
三人が三人とも、同じところを一度ずつ見て、誰も何も言わずに帰ったからだ。
細いのは、かまどの脇の暗がりにいた。人が来るたび、少しずつそっちへ寄っていたのは気づいていた。光の二つが、いつもより深く沈んで見える。
じ、と鳴った。次が来るまでが長い。長いのは機嫌のいいときだと、この数日で覚えたはずだった。
それなのに、今日の間の空き方は、そういう空き方には聞こえなかった。
「怒られてないぞ、お前は」
返事はなかった。俺は木っ端の数字を土間の柱に立てかけて、湯を沸かしに行った。




