第206話
帰りぎわに、若いほうが、また来てもいいですかと訊いた。いいですよ、と答えた。年上のほうは何も言わなかったが、坂を下りるまえに一度だけ振り返って、屋根のあたりを見ていた。
ふたりを見送って、布団を押し入れに戻した。客間から出たほうは日に干してあるぶんふくらんでいて、俺の寝間から出たほうは薄い。
薄いのは俺が使っていたからで、それを人に貸したというだけの話だ。畳んだものを重ねて押し込みながら、同じ家のなかなのに寝床の格が揃っていないのが、手のひらで分かった。
土間へ戻ってストーブに薪を足した。灰を掻いて、二本入れて、蓋を閉める。しゃがんだまま顔を上げたところで、勝手口寄りの板戸が目に入った。
引くと、乾いた音がした。ここ一年ほど、一度も引いていない戸の音だった。
六畳ほどの板の間。東向きの小窓がひとつ。越してきてからずっと物置で、人を寝かせたことは一度もない。
開けた拍子に埃が舞い上がって、小窓から入る光の筋のなかで、しばらく回っていた。奥に何が積んであるかは、はっきりとは見えない。
匂いが、母屋のほうとは違った。煙も、飯も、味噌も届いていない。乾いた木と、紙の古びた匂いだけがある。
人の生活の匂いが一年半かけて薄まると、こうなるらしい。
俺は戸を開けたまま、框に片足を掛けて立った。背中側は暖かい。上げたほうの足先は冷たい。
同じ家の、一間ぶんの距離で、これだけ違う。土間と板の間のあいだには板戸と框の段差があって、ストーブの熱はそこで止まり、この部屋には一度も回ったことがない。
「フン。開けたところで、そこで止まる。框の上は、まだ外だ」
梁の上から声が降ってきた。まだ外、というのが的確すぎて、言い返す気にもならなかった。
「おう! そこ、オレの火は届いてねえぜ!」
かまどのほうからも言われた。火が届くか届かないかは、この家でいちばん分かりやすい物差しだ。
「あるじぃ……ぼく、そこ、ころがっちゃうの」
足もとでも言われた。三匹に同じことを言われると、さすがに事実として受け取るしかない。
板の間へ足を下ろすと、板が一度、低く鳴った。冷えた木の鳴り方だった。
客はみんな、よく眠れましたと言って帰る。夏に来た人も、秋に来た人も、昨日のふたりも同じことを言う。それを聞くたびに俺は良かったと思って、そこで終わりにしていた。
終わりにしてはいけなかったのかもしれない、と、板の上に立って初めて思った。
工夫だけが増えて、部屋は増えていない。
増やす、という考え方を、俺はこれまで一度もしていなかった。
前の勤めなら、まっさきに出てくる案だ。捌ききれないなら台数を足す。足せないなら諦める。
そのどちらかしかなかった。ここでは、足すという選び方があること自体を、一年半忘れていた。思い出したら、少し楽しくなってきた。
小窓から、朝の光が一本だけ床に落ちていた。あとは暗い。板の目が光の帯のところだけ見えて、その両脇は影に沈んでいる。
「くらい」
いつのまにか、框のところまで来ていた。今日も、段のところから先へは入ってこない。土間には一昨日のうちに上がれるようになったのに、この部屋の前ではまた止まっている。
「暗いな。窓が一つしかないんだ」
答えると、それきり何も言わなくなった。じ、と一つ鳴って、その間はずいぶん空いていた。
俺は歩数で床を測ってみた。壁から壁まで、大股で四歩。向きを変えて三歩半。
天井は低いが、頭はぶつからない。畳は入れないと先に決めた。畳を入れれば下から手を入れることになるし、そちらはこの秋に客間でひととおりやっている。
板の間のまま、ござを敷いて、その上に布団でいい。
奥の暗がりには、越してきたときからそのままの荷が積んであった。前の持ち主が置いていったものと、俺が運び込んだきり一度も開けていないものとが、どちらがどちらとも分からないまま重なっている。
いちばん手前を横へずらすと、壁が出た。
日に焼けていない四角が、腰の高さまで残っていた。そのすぐ上に、釘の穴が二つ。何か大きなものが、長いあいだそこに立っていた跡だった。箪笥か、それに近いものだろう。
この部屋は、はじめから物置だったわけじゃない。
誰かがここで寝起きして、箪笥を置いて、いつかそれを運び出した日があった。運び出したあとの壁に、俺が段ボールを積んだ。
それだけのことなのに、四角の輪郭がはっきり残っているのが、少しばかり落ち着かなかった。
東向きということは、朝いちばんに光が入る部屋だということだ。物置に朝の光はいらない。この向きに窓を切った人は、ここで人が目を覚ますつもりで切ったのだろう。
俺は光の帯の縁を靴下の先でなぞってみた。板は冷たいが、光の当たっているところだけ、わずかに温い。増やすのではなくて、戻すのかもしれなかった。
天井を見上げても、電球の一つも下がっていない。線が来ていないのか、外してあるだけなのかも、下から見ただけでは分からなかった。
立ったまま踵に体重をかけると、板が沈んだ。もう一度、今度は爪先で押してみる。同じところが同じだけ沈んで、戻る。
抜けるほどではないが、人が毎晩寝る床としては、このままというわけにもいかないだろう。
「部屋が、ひとつ足りないんだよな」
声に出したのは、頭のなかだけで転がしていても片がつかないと分かったからだ。梁の上のは返事をしなかった。かまどのほうも黙っていた。
框のところのは、そもそも返事をするものなのかどうかも、まだ分からない。
その框のところを、もう一度見た。段の手前で止まったまま、板の間の暗がりを見ている。こいつが上がってこられる部屋にするか、とも思った。
人のためだけの話ではなくなっていた。
顔を上げたついでに、開けたままの勝手口の向こうへ目をやった。庭の隅の直売所と、その先の祠跡。雪の上が薄く明るい。
今日も消えていない。俺はすぐに、視線を足もとの板へ戻した。
「ここ、寝られるようにするか」
言ってから、いちばん手前の荷を抱えて土間へ運んだ。埃が肩に落ちて、抱えた腕のなかで中身が鳴った。何が入っているのかは、まだ知らない。
一つ出しただけで、部屋は少しだけ広く見えた。埃で喉がいがらっぽいのに、なぜだか気分がいい。




