第205話
朝のうちから、俺は同じところを二度拭いていた。
一度目は洗い桶のまわり。二度目は棚の下だ。どちらも、拾ってきたやつが通ったあとに水が散っている。
触っているところは一度も見ていない。ただ、そいつが通ったあとだけ、水が置き場所を変えている。拭きながら、こういう朝が今日で二日目だと気づいた。
裏へ回って、竹の樋に藁を巻いた。湯は落とさない。落とせば樋のほうが先に凍る。
巻いた藁を指で押さえると、なかの水はちゃんと流れていた。この音がしているうちは凍らない。
「あら。あるじ、初めてにしては、ずいぶんよく巻けておりますわ」
「去年、水道管の巻き方を鉄本さんに笑われたからな」
湯船は湯気を上げたままだ。湧き水が縁から静かに溢れて、そのぶんが雪の上へ流れていく。石の縁だけが、いつも先に乾く。
昼を回ったころ、直売所の脇に軽自動車が停まった。坂を上がってくる音で、来客だとは分かっていた。荷を運ぶ軽トラとは、坂の途中でのエンジンの粘り方が違う。
白い軽で、後ろのガラスに雪の名残がまだらに残っている。降りてきたのは五十がらみの男の人で、上着の襟を立てたまま、しばらく直売所の屋根を見上げていた。
棚の木札を一枚ずつ読んでから、こちらへ歩いてくる。
「あの、森野さんに……この山なら、泊めてもらえるかもって」
語尾が最後まで来ないうちに切れた。言いながら自分でも図々しいと思ったのか、途中で声が細くなる。
「森野さんの。ああ、はい。上がってください。寒かったでしょう」
荷物は土間の隅に置いてもらった。鞄がひとつだけで、それも小さい。
森野さんは、うちを人に勧めるとは一度も言っていない。言わないまま勧めている。口伝えというのは早いものらしい。
米を足しておくかと考えていたところへ、坂の下からもう一台、エンジンの音が上がってきた。
軽トラだった。降りてきたのは若いほうで、こっちは帽子を取ってから話しはじめた。
「悪いな……いや、すみません。町の、夜だけやってる店で聞いて」
夜だけやっている店。宵さんのところだ。そちらも聞いていない。
聞いていないが、たぶん本人に確かめても、ふふ、で済まされる。
玄関先で、ふたりが顔を合わせた。先に来たほうが会釈をして、後から来たほうが返す。その返しまでの間が、ほんの少しだけ長かった。
互いに、ここで誰かと鉢合わせるとは思っていなかった顔をしている。それでいて、どちらも嫌そうではない。
湯はもう張ってあるので、先に来たほうから案内した。脱衣所は秋に作り直したばかりで、棚も床も悪くない。腰から上は葦簀を透かして、昼のうちは明るい。
ただ、秋に踏んだときはひやりともしなかった板が、この時期はさすがに足の裏から冷たい。
「言っておきますけど、脱衣所、寒いですよ。電気も暖房もないんで。風呂上がりは走ってください。走ったほうが早いです」
言うと、その人は声を出して笑った。土間まで届く笑い方だった。笑ってから、走りますと言って、湯のほうへ下りていった。
◇◇◇
夕餉は、鍋にしなかった。鍋にすると座り方まで決まってしまう気がして、汁と焼き魚と、和えものを並べた。他人ふたりは、初めのうちは俺にばかり話しかけていた。
そのうち、雪の量の話から、どちらも車で来たという話になって、直接やりとりが始まった。
箸の進み方が揃ってきたころ、天井の電球が白く冴えた。
一度、二度と明るくなって、卓の上の皿の影が濃くなる。
「あれ、なんか明るくなりましたね」
「この家、たまにこうなんです」
言いながら、土間の隅へ目をやった。置いたままの鞄のまわりを、細いのが回っている。ちょうど二周目だった。
やめろ、とは言えない。言えば、誰もいないほうを向いて喋る人になる。俺は目だけで追い払おうとした。
目で言われても分からないらしく、そいつは三周目に入った。
鞄のなかで、何かが鳴った。
若いほうが、あれ、と言って鞄を引き寄せる。出てきたのは小さな懐中電灯で、点いていた。押していないのに点いている、という顔で、その人はしばらくそれを眺めてから、消して仕舞った。
「電池、入れっぱなしだったかな」
「そういうこともありますよ」
俺は汁のお代わりをよそうふりをして立ち上がり、鞄と細いのとのあいだを通った。一度で退かないので、もう一度通った。
二度目でようやく離れて、離れぎわに、じ、と短く鳴った。間が詰まっている。悪いことをしたと思っている音ではなかった。
卓へ戻ると、年上のほうが茶碗を置いて、部屋をぐるりと見回した。
「なんだか、賑やかな家ですね」
返事が一拍遅れた。この人には、何も見えていない。土間で回っているものも、かまどの奥で膨らんだり縮んだりしているものも、梁の上から見下ろしているものも。それでいて、賑やかだと言う。
「古い家なんで、いろいろ鳴るんですよ」
言ってから、汁を注いだ。注ぎながら、こういう説明がずいぶん上手くなったな、と思った。
前の勤めでは、答えに困ることは全部、仕様です、で押し通していた。それよりは、古い家なんで、のほうがいくらか誠実だろう。嘘は一つも言っていない。
湯に入った順の話になって、若いほうが、走りましたと言った。年上のほうも走ったと言い、そこで卓が一度、まとまって笑った。
俺は自分のぶんの汁をよそいながら、こういうふうになるなら鍋でもよかったかもしれないと思った。
知らない者どうしが、俺の作った脱衣所の寒さで笑っている。妙な話だが、悪くない。よそった汁の湯気で、腹より先に顔があたたまった。
それが、寝る段になると元へ戻った。誰がどこで寝るかという話が出た途端、ふたりの言葉遣いが、また少しだけ他人のものになった。
俺は土間へ下りて、頭のなかの数を並べ直した。飯は足りた。湯も足りる。
布団も押し入れに二組ある。並べていくと足りないものが一つずつ消えていって、最後にひとつだけ残った。
寝かせる部屋が、ひとつしかない。
人数の問題ではなかった。二人とも布団で寝られるし、飯も湯も足りる。ただ、今日初めて会った他人どうしを、同じ六畳に並べて寝かせるわけにはいかない。
秋にも客が重なった日はあって、あのときは客間に並べて敷いた。誰も何も言わなかったから、俺も考えずに済んでいただけだ。今日は、そうはいかない。
押し入れから二組出した。一組は廊下の奥の客間へ運び、もう一組は、行き先が決まらないまま框の上に置いた。年上のほうを客間へ通し、若いほうには俺の寝間を使ってもらう。
俺は土間のストーブの前で寝ますからと言うと、両方から同じくらい強く止められて、同じくらい強く押し返した。
戸を閉めて回り、火の始末をした。廊下の奥からも寝間からも、もう物音はしない。框の上の布団は、結局どこにも敷かれなかった。
俺はそれを担ぎ直して、土間のストーブの前へ下ろした。敷いてしまえば、ただの寝床になった。
薪を一本足して横になると、掛けたもののふちが、足のほうでわずかに引かれた。乗ってきたらしい。重さはやはり分からない。追い払う理由も、思いつかなかった。




