第204話
夜のうちに、ばちん、が三度した。一度目は寝入りばな、二度目は真夜中、三度目は明け方近く。数えるつもりはなかったのに、目が覚めるたびに数がひとつ増えていた。
古い家は音がよく通る。軒下で鳴ったものが、天井裏を伝って枕もとまで降りてくる。
起きて雨戸を開け、軒下を覗くと、昨日拾ってきたそいつが、毛布の上で丸まっていた。拳ふたつぶんの、輪郭のはっきりしない影のかたまり。そのなかに細い光が二つ、こちらを向いている。
夜のあいだに動いた気配はない。焦げた上着は昨日のまま脇に畳んであって、そのまわりの土だけが、ほんの少し黒く見えた。
毛布の毛先には霜が乗っていて、けれど真下の一枚ぶんだけは乾いている。
朝の冷えは指の関節から来る。一晩置いてみたが、そのあいだに焦げたものは一つも増えていない。俺は板戸を引いて、土間の奥を指した。
「入るか。そっちよりは、いくらか暖かいぞ」
毛布から降りて、ついてはきた。歩いてはいない。地面を擦る音がしないのに、気づくと一間ぶん進んでいる。
それでいて框の手前ではぴたりと止まった。踏み板の縁のところから、それ以上は上がってこない。段差が高いわけでもないし、俺が塞いでいるわけでもない。
何を待っているのか、こちらには分からなかった。
抱えて運んでもよかったが、昨日それをやろうとして指の先まで痺れ、諦めている。上着を掛けてやったときは何ともなかったから、布が一枚あればいいらしい。
俺は框に腰を下ろして、火を熾し、湯を沸かしはじめた。急かさずに背中を向けていると、鉄瓶が鳴りだすころには、いつのまにか土間の床の上に立っていた。
入ったのなら入ったと言ってくれればいいのに、音もしなかった。
その途端だった。天井の電球が細く鳴った。光が薄くなるのではなく、白く冴えた。裸電球が一瞬だけ、見たことのない明るさになる。
板壁の節穴の一つひとつにまで影がついて、そのぶん部屋が知らない部屋に見えた。二度、三度と繰り返すあいだ、ガラスのなかの細い線は、切れる手前まで焼けているように見えた。
切れれば町まで買いに下りることになる。あまり気持ちのいい眺めではない。
見上げているうちに、棚の上のラジオが勝手に鳴りはじめた。周波数の合っていない音だ。人の声にも音楽にもならない、砂を撒くような音が狭い土間に散らばる。
つまみを回すと粒の大きさは変わるが、消えない。電源を切っても鳴っている。裏蓋を開けて電池を二本とも抜いて、ようやく静かになった。
抜いた電池を掌に転がしていると、背中のほうで洗い桶の水が跳ねた。振り返るのと、袖が濡れるのが同時だった。屈んだ姿勢のまま肘まで持っていかれて、跳ねたぶんが框に落ちる。落ちる音が、水にしては速すぎた。
井戸のほうから半透明のものが滑ってきて、水面に薄く広がる。
「あらあら。この子が水を嫌がるのではなくて、水のほうが騒いでおりますのよ」
「水のほうが」
「ええ。わたくしが押さえておきますわ。桶の水だけは」
濡れた袖を絞りながら、俺は困った。電球は困る。ラジオも困る。水は、拭けばいい。
土間の隅で、そいつのほうがよほど困った顔をしていたからだ。二つの光が、天井と俺の顔とを行ったり来たりしている。自分のしたことだと分かっている顔でもなく、分かっていない顔でもない。
俺の様子を見て、これは良くないことらしいと後から知ったような、そういう遅れ方をしていた。
じ、じ、と短く鳴った。昨日、焦げた上着を掛けてやったときよりも、間がずっと詰まっている。
「怒らないよ。お前だって、困ってる顔してるだろ」
返事はなかった。代わりに、そいつは土間のものを一つずつ見はじめた。かまどの前でいったん止まる。
「これは、なに」
声だった。平らで、抑揚がない。区切りだけがはっきりしていて、訊いているのに訊かれている感じがしない。
語尾が上がらないからだと気づいたのは、二つ目のときだった。
「かまどだ。飯を炊く」
答えると、そいつは次に水がめの前へ移った。移り方はさっきと同じで、止まり方も同じだった。
「これは、なに」
「水がめ。井戸から汲んだ水を溜めておく」
鉄瓶でも同じ問いが来た。同じ調子で、同じ間合いで来る。四つ目は、かまどの脇に立てた火箸だった。
「これは、なに」
「火箸。火を触るための、手のかわりだ」
答えると、そいつはかまどのほうへ目を戻して、それきり動かなくなった。
その火の奥が膨らんだ。赤いのが飛び出してくる。
「なあなあ、あるじ! そいつ、火は平気なのか? オレのそばに、いっぺんも来ねえぜ!」
昨日はずいぶん静かだったのに、今朝はもう、いつもの地声に戻っていた。
「そんなに避けてるか」
「避けてるぜ! さっきからかまどの前で止まってばっかりだ!」
言われて数え直すと、確かにそうだった。土間のものを一つずつ見て回ったくせに、火のところだけは、いつも一歩ぶん手前で立ち止まっている。
訊いてはくるが、近づいてはこない。かまどの前で止まったのも、いちばん最初にそこへ行ったからではなく、そこから先へ行けなかったからかもしれなかった。
毛布のほうから転がってきたのが、俺の足もとで止まった。
「あるじぃ……あれ、ぼくのこと、じっとみてるの」
「怖がってはいないだろ」
「うん。でも、なんにも言わないねぇ」
コロには訊かないらしい。訊くのは土間の物にだけで、動くものはまだ数のうちに入っていないようだった。名前を教えてほしいのか、置いてあるものの用が知りたいのか、どちらなのかも分からない。
分からないまま、俺は訊かれたぶんだけ答えている。
訊かれたぶんだけ答える、というのは、前の勤めで新人に付いていたころとよく似ていた。あのころは、答えるたびに自分の手が止まる気がしてうんざりしていた。
いまは、次に何を訊かれるのかを待っている。同じことをしているのに、どうしてこうも違うのか。訊かれるのは、悪くない。
そういえば、夜のあいだのばちんは、朝から一度もしていない。鳴らないなら鳴らないでいいのに、いつ来るのかと耳のほうが勝手に待っている。
待っているうちに午前が終わって、昼を過ぎるころには、待っていること自体を忘れていた。俺は薪を割りに外へ出た。
◇◇◇
飯を炊いているときに、電球がまた白く冴えた。今度は長かった。三度続けて明るくなって、それから元に戻る。
土間の隅で何かがちりちりと鳴って、それも同時にやんだ。
俺は棚の奥から蝋燭を出して、欠けた皿に立てた。停電のときのために買っておいて、そのつもりでは一度も出していないやつだ。
去年の吹雪の晩も、結局は出さずじまいだった。あのときは、勝手に部屋が明るかったから。
マッチを擦って火を移す。芯が小さく爆ぜて、炎が立った。板壁に映る炎は、電球の光より輪郭がはっきりしていて、それでいて休みなく揺れる。
土間の空気が動いた。框のほうから、細いのが二歩ぶん近づいてくる。
一歩ぶん手前で止まる癖は、今度は出なかった。皿のふちまで来て、そこでようやく止まる。
「これは、なに」
「ろうそく。火だ」
答えると、そいつが初めて天井から目を離した。皿の上の小さな火を、瞬きもしないで見ている。
「ひ」
じ、と一つだけ鳴った。朝のように詰まってはいない。
電球を三度やられて、袖も濡らした。それでも、蝋燭一本で片がつくなら上等な晩だ。
「そう。火だ」




