第203話
昼前、薪を割っていて、俺は手を止めた。風下から、焦げくさい匂いが流れてくる。
落ち葉を焚いた匂いとは違った。もっと硬い。金気の混じった、鉄を焼いたときのような匂いが、細く一筋だけ、斜面のほうから下りてくる。背筋が冷えた。冬の山で焦げくさいと言えば、まず疑うのは火だ。
俺は鉈を置いて、井戸端のバケツに水を張り、納屋の壁から火叩きを外した。去年の秋に、近所のじいさんに言われて用意したきり、使う日が来るとは思っていなかったやつだ。
「エン。火の気配、分かるか」
「おう! まかせろって! ……ん? いや、燃えてはいねえぜ。火は火だけど、オレの知ってる火じゃねえな!」
燃えてはいない。その一言で、走りかけた足が歩きに変わった。それでも確かめないわけにはいかないので、俺は匂いをたどって、杉の植わった斜面を登っていった。
落ち葉の下の土は、まだ凍っていない。踏むたびに雪の残りがしゃりと鳴る。匂いはだんだん濃くなって、途中から、じじ、じじ、という細かい音が混じりはじめた。虫の音にも、電線の唸りにも似ていて、どちらでもない。
三本目の杉の、根方だった。そこだけ雪が円く解けていて、解けた輪の真ん中に、小さいのがうずくまっている。手のひらに乗るくらいの大きさで、灰色とも青ともつかない毛に覆われていて、その毛の先が、あちこち黒く焦げていた。じじ、と鳴っているのは、こいつだ。
バケツを雪の上に置いて、しゃがみ込んだ。火の始末をしなくていい安心と、では何を見ているのかという戸惑いが、同時に来る。
うちの四匹とは、形が違う。コロのような丸みでもなく、スイのように透けてもいない。エンの尻尾の火とも違う。強いて言えば、雨に濡れた仔犬がいちばん近い。毛が体の線に貼りついて、実際より二回りも小さく見えている、あの形だ。ただしこいつを濡らしているのは雨ではなく、縮れた毛先から、じ、じ、と細かい光がこぼれ落ちている。近づけた手の甲の産毛が、そのたびに軽く逆立った。
手を出した。指先が、びりっと痺れた。肘まで痺れが走って、それがすっと引いていく。痛いというより、感覚が一拍遅れて戻ってくる感じだ。小さいのは、痺れさせたことにも気づいていないみたいに、じじ、と鳴りつづけている。
俺はもう一度手を出して、二度目も同じだったので、抱えるのは諦めた。上着を脱いで、雪の上に広げる。冷えた風がシャツ一枚の背中に当たったが、俺には替えがあるし、こいつには替えがない。
上着の袖を使って、下からすくうように包んだ。驚くほど軽かった。重さはほとんどなく、包んだ布ごしに、じじ、という震えだけが手のひらに伝わってくる。
斜面を下りるあいだ、俺はそれを胸の前で抱えていた。一歩ごとに、シャツの背中へ雪の風がまともに当たる。それでも足は速めなかった。揺らすと、震えの間隔がわずかに乱れるのが分かったからだ。
軒下に着くと、四匹が集まってきた。コロが真っ先に寄ってきて、上着の縁まで身を乗り出し、それから、するりと後ろへ下がる。
「あるじぃ、ぼく、さわれないの」
スイが井戸のほうから水をひとすくい寄せてきて、上着の上へ差し出そうとした。だが水の面が触れる手前で、しゅう、と白い湯気が立った。スイはその湯気をしばらく見てから、水を静かに引っ込めた。
「……わたくしたちとは、根が違いますわ」
モクは作業台のへりから、一度だけ見下ろした。
「フン」
そして、何も言わずに鉋の柄へ手を戻した。削りくずが一枚、板の上へ落ちる。
「山火事じゃないのは分かった。分かったけど、これはこれで、どうしたもんかな」
触れない。水は寄せられない。四匹のうち三匹が距離を取っていて、残る一匹は何も言わない。困りごととしては、なかなか手強い部類だった。
考えられるとすれば、迷子だ。うちの常連さんは、姿を見せずに来て、姿を見せずに帰る。犬を連れてくる人だっているだろうし、その犬が犬とは限らない。客の連れがはぐれたのなら、こいつは飼い主が探しに来るまでの預かりものということになる。そう思うと少し気が楽になった。返すまで無事でいてもらえばいい。
俺は上着ごと、軒下の板の上に小さいのを下ろした。じじ、の間隔は、山にいたときより短くなっている。震えが速くなっているということなのか、それとも弱っているのか、判断がつかないまま見下ろしていると、かまどのほうで灰をかき分ける音がした。
エンだった。灰の底から焼き芋を一本、無言で転がしてくる。朝から埋めてあったやつで、自分で食うつもりだったのを、俺は知っている。
「……ほらよ」
なあなあ、も、感嘆符もなかった。俺はエンを見た。エンは芋を転がしたきり、こちらに目を合わせず、かまどの前に戻って火を大きくしはじめる。黙って何かを差し出すあいつを、俺は知らない。
芋は割れ目から湯気を上げていた。俺はそれを上着の縁に置いてやった。手のひらに乗る相手に、まるまる一本は大きすぎる。
「口に合うかは知らないけどな」
返事はない。だが小さいのは、じり、と体をずらして、芋のほうへ顔を寄せた。かじるでもなく、湯気に鼻先を突っ込むようにして、そこで止まる。
じじ、の間隔が、少しずつ開いていった。焦げた毛先が白い湯気になって、ゆっくりと抜けていく。抜けたあとの毛は、灰色とも青ともつかない、もとの色に戻っているようだった。
湯気の向こうで、そいつが顔を上げた。目が合った。というより、目があるとそのとき初めて分かった。焦げた毛のあいだに、細い光が二つ。瞬きらしいものはしない。ただ、こちらを見ていた。芋でも、かまどの火でもなく、俺のほうを。
先に目をそらしたのは俺のほうだった。そんなに長く見つめられると、どう応じていいか分からなくなる。
「……腹が減ってるだけだよな、たぶん」
言い訳のように口に出して、芋をもう少し近くへ寄せてやった。
軒下に日が回らなくなったころ、スイが俺の足もとまで来て、水面を静かにした。
「あるじ。この子は、落ちてきたのですわ」
「落ちてきた」
聞き返したが、スイはそれ以上言わなかった。水面をひと巻きして、井戸のほうへ戻っていく。山の上から転げ落ちてきたという意味なのか、別の意味なのか、俺には掴めなかった。掴めないまま日が傾いて、軒下の影が長く伸びた。
庭の隅へ目をやると、直売所の根もとが今日もぼんやりと明るい。昨日より強い気がしたが、俺は視線を膝もとへ戻した。今日のところは、こっちが先だ。
俺は納屋から古い毛布を出してきて、上着の代わりに敷いてやった。上着のほうは、袖のあたりがもう黒く焦げている。
家に入れることは、まだしなかった。電気の線も、紙も、乾いた木も、家のなかには焼けるものが多すぎる。冷えるだろうが、軒下なら風は当たらないし、かまどの熱もいくらか届く。
毛布の上で、じじ、が一定の間隔に落ち着いていった。
エンは一度もこちらを見ないまま、かまどの火を、さらに大きくした。




