第202話
夜中の音のことは、朝になってもまだ耳に残っていた。ばちん、と乾いたやつだ。雨戸を繰っても庭には何もなかったし、明るくなってから軒下と薪棚をひと通り見て回っても、割れた物ひとつ落ちていない。あのとき四匹が揃って身を起こしていた以上、俺の耳のせいではないのだろう。ただ、何の音だったのかは分からない。分からないものは、分からないまま置いておくよりない。
土間に下りると、かまどの火がもう起きていた。灰をかき分けた跡が残っていて、鉄瓶の口からは、ゆるく湯気が上がっている。
「おう! 今朝は冷えるぜ! 火、強くしといたからな!」
エンが胸を張って、尻尾をぱちぱち言わせている。ありがたい、と返して、俺は鉄瓶の湯で先に手を温めた。指がかじかんだままだと、大根の葉を落とすのに包丁が滑る。
籠に大根を積む。抜いたまま土間に寝かせておいたものだ。葉を落とし、泥を軽く落として、六本。今朝の直売所の品はこれでいい。外へ出ると息が白くなって、昨日の雪が残った庭の土は、踏むとしゃりと鳴るくらいには固く締まっていた。
籠を抱えて、庭を突っ切る。この十歩ばかりを歩くのは、もう何百回目か分からない。だから、目に入った瞬間に、違うと分かった。
直売所の棚の手前——祠跡の、ちょうど前だけ、雪が融けていた。
俺は籠を下ろして、その前にしゃがみ込んだ。まわりは白いままなのに、そこだけ黒い地面が出て、輪郭の内側から薄く湯気が立っている。円ではない。かといって、人の足跡が集まった形でもない。丸みと、細長い張り出しがあって、人の形とも獣の形ともつかなかった。
手をかざしてみる。あたたかいというほどではないが、頬に触れる空気とは明らかに違う。指を一本、黒い地面に押しつけてみると、土がぬるかった。冬の土の、芯まで冷えた感じがまるでない。
俺は輪郭の縁を指でなぞって、大きさを測ろうとした。肩幅より少し広い。長さは、俺が両手を広げたぶんには足りない。縁の雪は細かい粒になっていて、なぞった指のあとから、さらさらと崩れた。
膝の雪を払って立ち上がり、俺は母屋のほうへ向かって四匹を呼んだ。庭仕事の途中で呼ぶときと同じ、いつもの声の大きさで呼んだつもりだった。
「コロ。スイ。……これ、分かるか」
四つとも来た。コロが肩から下りて、輪郭の手前で止まる。スイが水面を一度だけ震わせて、それきり動かない。エンは尻尾の火を小さくしたまま、いつもの勢いで飛び込んでこない。モクは少し離れた石の上に降りて、そこから見下ろしている。
そうして、四匹とも黙った。
風が畑の上を渡って、囲いの板を鳴らす音だけが残る。直売所の屋根の波板がかたかた鳴って、それも止んだ。
こいつらが揃って口をきかないのは、あまりないことだ。何かを隠している顔でもない。ただ、そこにあるものを、そこにあるものとして見ている。
しばらく待ってみたが、誰も口を開かなかった。俺は白い息をひとつ吐いて、待つのをやめた。
「そうか。答えないか」
その言い方に、責める色が混じらないように気をつけた。答えないのなら、答えられない理由があるのだろう。この一年半、こいつらが俺に不利になることをしたためしは、一度もない。
コロが、輪郭のほうを向いたまま、ぽつりと言った。
「あるじぃ、あそこのつち、ねむってないの」
「眠ってない、か」
冬の土は眠るものらしい。コロの言い方だと、そういうことになる。山じゅうの土が眠っているなかで、あそこだけが起きている——それはたしかに、指に伝わってきたぬるさと、辻褄が合っていた。
スイが水面をきらりとさせて、「あら」と言った。それ以上は続かなかった。
俺は輪郭から目を上げて、その先の祠跡を見た。苔の乗った台石の根もとが、冷えた昼前の光のなかでも、ぼんやりと明るい。昨日と同じくらいの強さだ。囲いが済んだら行く、と言ったのはこの光のことだが、こうしてすぐ前にしゃがんでみても、行くというのが何をすることなのか、自分でもよく分かっていなかった。
俺は籠を持ち直して、棚に大根を並べようとして、手が止まった。昨日並べたぶんが、そっくりそのまま残っている。萎びかけた白菜も、隅に置いたときのままだ。いつもの癖で、料金箱の蓋を開けた。
空だった。
品が減っていないのだから、空なのは道理ではある。持っていかれた日に箱が空だったことは、この一年半、一度もない。見慣れないコインだったり、夜になるとほのかに光る石だったりして、こっちが恐縮するくらいの釣り合わなさなのだが、忘れられたことは一度もなかった。その相手が、昨日は来なかったことになる。
空の箱に手をかけたまま、俺は少しのあいだ考えて、それから、少し気の毒になった。
去年の大雪でも、あの人たちは平気で通ってきていた。雪くらいで足を止める相手ではない。来なかったのだとしたら、向こうで何か、手の離せないことでもあったのだろう。うちの常連は、たぶん相当な遠いところから来ている。その長い道のりのどこかで足を取られているのなら、こっちの棚に品が残っているくらいのことは、どうということもない。
「手が空いたら、また来るだろ」
声に出して、蓋を戻した。昨日のぶんを手前に出して、今朝の大根はその奥へ並べる。棚の脚が少し傾いでいたので、平たい石をかませて直しておいた。それで朝の仕事はしまいだ。
母屋に戻って薪を割り、割ったぶんを棚に積んで、昼を食った。朝の残りの飯に湯を張って、たくあんと、焼いた干物をほぐして落としただけのものだ。湯を吸った飯が茶碗のなかでゆっくりほどけて、干物の脂が薄く浮く。冷えた指を茶碗の腹で温めながらかき込むと、背中のほうまで順に熱が回っていった。
飯の途中で何度か、箸を持ったまま、あの輪郭のことを考えた。人の形とも獣の形ともつかない、というのは、裏を返せば、どちらにも見えるということでもある。
もっとも、雪の融け跡から分かることなんて、そう多くはない。獣が寝ていれば雪は融けるし、湯を零しても融ける。土がぬるかったのだけが、どちらの説明にも収まらなかった。
昼過ぎ、大根の泥を落としに下りたついでに、俺はもう一度そこを覗いた。
日が回って、輪郭は崩れていた。張り出しがなくなり、丸みが潰れて、ただの水になっている。融けた雪が黒い土に吸われていくのが、思っていたよりずいぶん速い。しゃがみ込んで、指をもう一度当ててみると、土はもう、まわりと同じに冷たかった。
形が残っていたのは、半日だけだったことになる。そう考えると、朝のうちに指で縁をなぞって大きさを測っていた自分の手つきが、我ながら少し可笑しかった。
夕方、母屋の裏で薪を運んでいると、作業台のモクが、背を向けたまま短く言った。
「フン。融けた雪の形なんぞ、明日には残っとらん」
鉋を一往復させる音が挟まって、削りくずが土間の板に落ちる。それから、続きが来た。
「……忘れてもいいがな」




