第201話
雨戸を繰ると、庭がうっすらと白かった。積もるというほどではない。夜のあいだに舞ったぶんが、霜のかわりに薄く残っている、という程度だ。
それでも去年の初雪の朝とは、気分がまるで違っていた。あのときは縁側で三十分ばかり呆けていたのだ。きれいだなあ、と眺めて、それからようやく、水道が凍るんじゃないか、と慌てて立ち上がった。
今年は、考えるより先に足が動く。俺は湯呑みを框に置いて、長靴に足を突っ込んだ。軒下の薪棚は去年より一列多く積んであるし、軒先の竿の干し柿は、冬の光をすかして飴色に透けている。冬の支度はあらかた済んでいて、残っているのは雪囲いだけだった。
納屋の奥から、去年の角材と板を引っ張り出す。しまうときに墨で番号を書いておいたのが、まだちゃんと読めた。北の一、北の二、東の一。埃を払って、組む順のとおりに庭へ並べていくと、しゃり、しゃりと、薄い雪の下で土の鳴る音がした。
「去年は、いちいちノートを開いてたんだよな」
声に出してみて、口の端が上がった。じいさんに教わった寸法を書き留めたやつを、板を一枚合わせるたびに開いては、指で行をたどっていた。番号を書く、というたったそれだけの工夫で、今年の俺は手が止まらない。段取りというのは、こういうところで効いてくる。
並べ終えて、俺は一本だけ脇へよけた。北の三は、下端が雨を吸って、爪を立てると柔らかく沈む。中まで傷んでいるわけではないが、雪の重みを一冬受け止めるとなると、ここは信用しないほうがいい。
作業台へ運んで、丸ノコで傷んだぶんを挽き落とした。刃の音が、雪の日だけは短く切れて、山のほうへ吸われていく。挽いた面に指を当てると、湿った下端とは別ものの、乾いた木の匂いが立った。
「うん。替えるのは、これ一本でいい」
全部を新しくすれば、たしかに気持ちはいいだろう。だが去年の材はまだ働ける。使えるものを使い切ってから考えるというのは、この山に来て一年半で、いちばん体に馴染んだ考え方だった。
板を当てて、釘を打つ。北側の一枚を持ち上げたところで、作業台のほうからモクの声が飛んできた。
「フン。この山の雪は重い。去年、柱の間を詰めさせて、筋交いを入れさせたんだったな。……もう言うことがないぞ」
俺の手は、そのときにはもう、去年詰めた柱の位置へ伸びていた。言われる前に届いてしまったので、モクは言葉を途中で切って、そっぽを向く。照れているらしい。
足もとでは、コロが柱の立つあたりの土を、ぽふぽふと踏み固めていた。俺が板を当てるより先に、そこだけ色が濃くなっている。
「あるじ、そこのつち、ぼくがかためといたよぉ」
「助かる。柱が沈まないと、板が浮かないんだ」
去年の初雪の日、コロは俺の首もとにもたれて、やまがねむるからぼくもねむいの、と言っていた。それが今年は、朝から庭に下りていて、俺の打つ釘の一本ごとに、いちいち身を跳ねさせていた。
「なあなあ、あるじ! 今年の薪、去年より一列多いぜ! オレ、数えたんだからな!」
エンが尻尾の火をぱちぱち爆ぜさせて、薪棚の前を行ったり来たりしている。割ったのは俺だが、数えたのが自分の手柄ということになっているらしい。
「あら。囲いが済みますと、この庭は音が変わりますのよ。わたくし、その音が好きですわ」
井戸端で水面をきらりと光らせて、スイが言った。音が変わるというのは、囲いが風を受け止めて、庭のなかが静かになるという意味だろう。言われてみれば去年も、囲いを閉じた晩から、寝床に届く風の音がひとつ減った気がする。
昼、湯を飲みに戻ろうとして、俺は足を止めた。四匹が、揃って同じほうを見ている。庭の隅の直売所——その根もとにある、古い石の祠跡のほうだ。
コロは肩の上で身を乗り出し、スイは水面を止め、エンは尻尾の火を小さくしたまま動かない。作業台のへりからモクまでが首を伸ばしているのを見て、俺も同じほうへ目をやった。
光っていた。冷えた昼の光のなかでも、それははっきりと分かる。初雪の晩に見たときより弱い。だが、消えてはいない。じわりと滲むような、あたたかい色のまま、そこにある。
打ち消す気にはならなかった。見えているものを気のせいだったことにするには、俺はもうこの山で色々なものを見すぎている。こいつらが四匹揃ってそっちを向いている以上、あれは俺の目のせいではない。
「見てるな、四匹とも」
肩のコロが、返事のかわりにもぞりと動いた。否定はしない。かといって、何かを教えてくれる気配もない。
「……分かってる。囲いが済んだら、行く」
順番を決めたのは、後回しにしたかったからではない。半端に空いた囲いに一晩雪が吹き込めば、明日の仕事が倍になる。先に終わらせるべきものを終わらせてから行く。それだけのことだった。
日が落ちる前に、囲いは終わった。庭をひと回りして、板の合わせ目を上から順に確かめていく。指を差し込んで、隙が通るところがないかを見る。北の三も、挽き直した面がきっちり座っていた。支えの石は、鞍馬さんに教わった組み方のまま、去年の場所に据わっている。
日暮れ前に手が空いた。去年はこうはいかなかった。踏み固めた土に長靴の跡が並んで、その上へ、また細かい雪が降りはじめている。囲いの内側だけが、少しだけ暗くなったように見えた。
夜。土間のかまどで飯を炊いて、大根と油揚げの味噌汁をこしらえた。今朝抜いた大根を、煮えばなを狙って火から下ろす。角がまだ立っていて、噛むと歯のあいだで汁がふくれた。囲いを一日で通した日の飯は、同じ献立でも味が違う。汁をひと口すすると、湯気で顔がまるごと湿って、鼻の奥まであたたかくなった。
板の間に膳を運んで、ストーブに当たりながら食った。飯を二杯、汁を二杯。腹が埋まったころに、軒先の竿から干し柿をひとつもいできて、指で裂いて口に入れた。外側は乾いて粉を吹いているのに、中はまだ飴のまま柔らかい。渋の抜けきったところの甘さが、働いた日の舌にはやけに濃かった。
湯呑みの茶で口を流す。囲いを閉じた庭は、スイの言ったとおり、たしかに音が減っている。
その静かさの外で、ばちん、と何かが弾けた。
濡れた薪がストーブで爆ぜる音とは違う。もっと乾いていて、もっと遠い。俺は湯呑みを置いて、雨戸を細く繰ってみた。うっすら白くなっただけの庭には、何もない。
土間の奥で、四匹だけが身を起こしていた。




