第200話
朝、縁側に出た瞬間に、空気の匂いが変わっているのに気づいた。
張りつめて、透きとおって、どこか金気を含んだような冷たさ。山の木々はあらかた葉を落として、残った紅葉が最後の色を、名残惜しそうに散らしている。空はうっすらと鉛色に沈んで、遠い稜線のあたりが、白くけぶって見えた。
「……そろそろ、初雪かもな」
俺は湯呑みの茶を両手で包んで、その温もりを確かめた。
この秋も、気づけば終わろうとしている。二年目の秋だ。去年の今ごろは、初めての冬をどう越すかで頭がいっぱいで、薪を割っては積み、保存食を仕込んでは唸っていた。今年は、そのへんの勝手は、もうすっかり体が覚えている。
湯気の向こうに山を眺めながら、俺はこの数月のことを、ゆっくりと振り返っていた。
思えば、賑やかな秋だった。
夏に元同僚を泊めた話が、疲れた人づてに、細い糸をたどるように広がって、この山を訪ねる人が、ぽつり、ぽつりと増えていった。「あの人に紹介されて」と、遠慮がちに山道を登ってくる人たちを、俺はその都度、湯を沸かし、飯を炊いて迎えた。
最初は、来るたびに慌てていた。布団を引っ張り出し、タオルを探し、献立をとっさに考える。毎回それではきりがないから、俺は俺で、迎える工夫を積んでいった。
客間を、ちゃんとした寝床に拵え直した。
畳を入れ替え、障子を張り替え、隙間風を塞ぎ、床の間には無垢の棚をあつらえた。あの作業は、モクがずいぶん張り切ってくれた。「フン、この部屋は日当たりがいい。客を寝かせるなら、ここだな」と、材の目を読んで、継ぎ手の精度を上げてくれたのを、よく覚えている。
自慢の露天風呂には、脱衣所も作った。
板張りの床に、脱いだ服を置く棚、手ぬぐいと湯上がりの水、風を切る囲い。濡れた足で冷たい思いをさせちゃ、せっかくの湯が台無しだからな。細部が、いちばん大事だ。
料理も、段取りが効くようになった。
よく出る惣菜を作り置きして、味噌や漬物、干物や燻製を組み合わせ、汁物と炊きたての飯だけをその場で仕上げる。下ごしらえさえ済んでいれば、五人来ても慌てない。段取り八分、というやつだ。
山歩きの道まで、整えてしまった。
下草を刈り、危ない段差に丸太の階段を組んで、眺めのいい高台には丸太のベンチを据えた。せっかく山に来たんだから、風呂と飯だけじゃもったいない。落ち葉を踏んで嬉しそうに歩いていく客の背中を見ると、こっちまで嬉しくなった。
……そうして、ふと気づく。
布団があって、風呂があって、飯が出て、遊ぶところもある。これ、ほとんど宿の体裁じゃないか、と。
「まあ、宿じゃないんだけどな」
俺は苦笑して、茶をひとくちすすった。
金を取っているわけでもないし、看板を出しているわけでもない。ただ、来た人が困らないようにと工夫していたら、いつのまにか、こうなっていた。それだけの話だ。
賑やかになったのは、現代の客ばかりじゃない。
森野さんも、鉄本さんも、鞍馬さんも、宵さんも、この一年ですっかり常連になった。森野さんは季節の変わり目に山の様子を見に来て、鉄本さんは道具の手入れついでに湯と飯を目当てに寄り、鞍馬さんは石の具合を検分がてら高台の眺めを楽しみ、宵さんは夜、発酵の話をしにふらりと現れる。
この腕のいい変わり者たちが、現代の疲れた客と、同じ縁側に並んで茶をすすっている。そんな光景も、もう見慣れてしまった。
気づけば、この山は、誰もが立ち寄る場所になっていた。
誰かがいて、湯が沸いていて、飯の匂いがして、話し声が絶えない。一年半前、独りきりでしんと静まり返っていたこの山とは、まるで別の場所だ。
「集会所みたいだよなあ。……俺の家なんだけど」
声に出して、自分で可笑しくなった。
そのうえ、庭の隅の直売所には、あいかわらず奇特な常連がいる。品を並べておくと、翌朝にはきれいに消えていて、料金箱には見慣れないコインや、夜にほのかに光る、きれいな石が入っている。あれを届けにくる相手の顔を、俺はいまだに見たことがない。
現代の客が保養に来て、腕のいい変わり者たちが湯と飯に集い、そのうえ、姿の見えない誰かまで通ってくる。考えてみれば、ずいぶんと不思議な場所に育ったものだ。
「独りになりたくて逃げてきた山が……いつのまにか、こんなに賑やかで、あったかい場所になった」
俺は縁側にもたれて、白くけぶる稜線を見上げた。
「人生、わからないもんだな」
静けさが欲しくて、この山に来た。それは今も変わらない。朝の澄んだ空気も、風が梢を渡る音も、独りで飯を炊く時間も、ちゃんと俺の手のなかにある。
なのに、その同じ山が、賑わいも抱えている。静と賑が、喧嘩もせずに同じ屋根の下に居座っている。そんな暮らしがあるなんて、逃げ込んできた頃の俺は、思ってもみなかった。
——ただ、ひとつだけ、気にかかることがあった。
直売所の、あの棚のあたりだ。
このところ、あの一角の空気が、妙に張りつめている。かすかに震えて、境目が薄くなるような、これまで感じたことのない気配。冬が近づいて、あたりの何もかもが冷えていくのに、あそこだけは、ほのかに熱を持っているみたいなのだ。
その気配は、日を追うごとに、濃くなっている。
◇◇◇
同じ頃。祠の向こう側では。
辺境のネル村は、いつにない熱気に沸いていた。
痩せた土地と魔獣に苦しめられ、村を捨てる若者ばかりだったこの村は、もう、以前の村ではない。辻の祠に瑞々しい恵みが現れるようになってからというもの、飢えは去り、病人は癒え、畑には笑い声が戻った。
誰もがそれを、"祠の主さま"の恵みだと信じている。
行商のガロは、村外れの辻に立って、小さな石の祠を見上げていた。
ここ数日、祠の様子が、これまでと違う。かすかに脈打つように、あたたかな気が、石のあいだからにじみ出している。供物を捧げるだけの、いつもの祠ではない。まるで、向こう側の"何か"が、こちらへ近づこうとしているような——そんな気配なのだ。
「主さまが……近くにいらっしゃる」
ガロは思わず、そう呟いていた。
村の年寄りたちも、口々に言う。長く祠を守ってきた者ほど、この変化に胸を高鳴らせている。もう供物を捧げるだけでは足りない。一目でいい、主さまに直接お会いして、この感謝をお伝えしたい——村じゅうの篤い願いが、ひとつの祈りとなって、祠に注がれていた。
ガロは、背負った旅荷の紐を、そっと確かめた。
いちばん上等な毛皮、磨いた魔石、蓄えた金貨。日ごろの感謝を込めた、精一杯の供物だ。それを担いで、いつでも発てるように、支度はもう整えてある。
なぜだか、ガロには確信があった。近いのだ。もうすぐ、何かが起こる。長いあいだ、姿を見ることのできなかったあの方に、ようやく、じかにお会いできる日が。
「祠の主さま……」
ガロは祠に向かって、深く頭を垂れた。
「もうすぐ——もうすぐ、そちらへ伺えるかもしれません」
◇◇◇
日が暮れかかって、山の冷えが、いっそう深くなってきた。
俺は縁側から立って、直売所のほうへ歩いていった。なんとなく、あの棚が気にかかって、放っておけなかったのだ。
ふと足もとを見ると、相棒たちが四匹、いつのまにか俺についてきていた。
肩の上でコロがまんまるの目をぱっちり開いて、足もとでスイがそわそわと水面を波立たせ、エンが尻尾の火をちろちろ揺らし、モクが作業台のへりで、鼻をひくひくさせている。
「あるじ、あっちから……なんだか、たのしいにおいがするなの」
コロが、期待に弾んだ声で言った。
「何かが、近づいてきていますわ。……悪いものじゃ、なさそうですわね」
スイが、水面をきらきら光らせて続ける。
「なあ、なんか来るんだろ? オレ、わくわくしてきたぜ!」
エンが、尻尾をぱちぱち爆ぜさせて、飛び跳ねた。
「フン……この気配、ただ事じゃないな。だが、悪くない」
モクまでが、そっぽを向きながら、どこか浮き立った声で呟いた。
こいつら、揃いも揃って、そわそわしている。何かが起きるのを、心待ちにしているみたいに。
俺は苦笑して、直売所の棚の前に立った。
すると——ほのかに、祠跡が、光を帯び始めた。
あたたかな、金色にちかい光。棚の根もとの、古い石のあたりから、じわりと滲むように、それは広がっていく。この山で暮らして一年半、一度だって見たことのない、けれど、少しも怖くない光だった。
俺は、思わず息を呑んだ。
冷えた夕暮れのなか、その一角だけが、ぽっと灯りをともしたように、あたたかい。頬に、ふわりと、雪の気配まじりの風が触れた。今年の、初雪だ。しんしんと、白いものが、光のなかへ舞い降りてくる。
しばらくその光を見つめて、俺は、ゆっくりと口の端を上げた。
「……この山、まだ何か起きそうだな」
不安は、不思議とまるでなかった。あるのはただ、確かな高揚と、胸の奥で膨らんでいく、あたたかい予感だけだ。
肩のコロが、光のほうへ身を乗り出して、うれしそうに揺れている。
俺は、舞い落ちる初雪と、静かに脈打つその光を、交互に眺めた。それから、白い息をひとつ吐いて、こう呟いた。
「なんだか——楽しみだ」
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あとがき
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