第199話
朝、直売所へ品を並べに行くと、吐く息が白くほどけた。
里ではまだ紅葉が残っているのに、この山の空気はもう冬の縁に指をかけている。手袋越しにも指先がひやりとして、そろそろ初雪も遠くないな、と首をすくめた。
それなのに、祠跡のあたりだけが、妙にあたたかい。
いや、あたたかいという言い方は正しくないのかもしれない。冷えきった空気の中に、そこだけ熱がこもっているような、奇妙な手応えだ。手をかざすと、じんわりと、何かが押し返してくる気がする。
「……この辺だけ、なんだ?」
俺は大根を並べる手を止めて、祠跡を見つめた。空気が、ゆらりと揺れる。陽炎みたいに、境目がほどけて、薄くなる。ここ数日、その揺らぎが、日ごとにはっきりしてきている。
気のせいで済ませたい気持ちは、もうとっくに通り越していた。確かに、この一角の空気だけが、変わってきている。
前の仕事なら、こういう「なんか変」は放っておくと、あとで必ず面倒になるやつだ。原因のわからない不具合ほど、根が深い。もっとも、あのころ相手にしていたのはサーバーの機嫌で、山の空気ではなかったけれど。
料金箱を開けると、いつものコインが入っていた。ずしりと重い、鈍い金色の一枚。相変わらず、奇特な常連さんがいるものだ。ただ、そのやり取りにも、近ごろ妙な密度がある。箱を開ける手のひらに、向こう側から、誰かの熱が、じかに伝わってくるような——そんな気配だ。
「……気の回しすぎか。まあ、悪いことじゃなさそうだけどな」
そう独りごちて、俺は棚に品を並べ直した。
◇◇◇
その日の夕方、片づけを終えて縁側に腰を下ろすと、視界の隅で、あの青い石がちらりと光った。
一年ちょっと前、直売所の料金箱に入っていた石だ。透きとおった青が気に入って、飾りに置いてある。夜になるとほのかに光るのは前から知っていたが——今夜は、これまでとまるで違った。
いつもの、寝息みたいな淡い光じゃない。石の芯のほうから、脈を打つように、青がじわりと濃く滲んでくる。手のひらに乗せると、ほんのり温かい。
「……お前も、今日はやけに元気だな」
鉱物が光って熱を持つなんて、理屈はさっぱりわからない。けど、この石だけじゃない。祠跡の揺らぎといい、直売所の手応えといい、この数日、山のあちこちが、何かを待つみたいに、そわそわしている。
ふと畑のほうを見て、俺は目を丸くした。
祠跡のまわりに、コロとスイとエンとモクが、四匹そろって集まっている。いつもはてんでばらばらに好き勝手しているやつらが、肩を寄せ合うようにして、じっと同じ方向を見つめていた。向こう側を——空気の薄くなったその奥を、窺うように。
「あるじ……ここ、あったかいの。むこうから、だれかの、におい、するの」
コロがまんまるの目で、揺らぎの奥をのぞきこむ。
「水がざわめいて、止まりませんわ。……何かが、近づいてきていますわ」
スイが縁で身を震わせ、エンは尻尾の火をぱちぱち跳ねさせて、「なんかすげー気配だぜ、これ!」と落ち着かない。モクだけが腕を組んで、鼻をひとつ鳴らした。
「フン……この気配、ただ事じゃないな」
精霊たちが四匹そろって身構えるなんて、そうそうない。喧嘩っ早いエンと、腕組みが板についたモクが、肩を並べておとなしくしている時点で、もう相当なことだ。俺は青い石を握りしめたまま、思わず背筋を伸ばした。
「冬が近いのに、この辺だけ、なんだか熱を持ってるみたいだ。……何かが、開こうとしてる」
不思議と、怖くはなかった。むしろ、胸の奥が、ぽっと明るくなる。子どもの頃、祭りの前の晩に感じたような、あのそわそわだ。
◇◇◇
その夜、露天風呂に、宵さんが来ていた。
夜カフェの店主で、昼間は滅多に出歩かない人だ。うちの湯を気に入って、たまにこうして、日が落ちてからふらりと現れる。
湯上がりの宵さんは、火照りひとつ見せない涼しげな顔で、縁側に立って夜風に当たっていた。そうして、闇に沈んだ祠跡のほうへ、ゆっくりと目をやる。
その一瞥に、俺は妙な引っかかりを覚えた。宵さんは、あの揺らぎが、見えているみたいだった。
「ふふ……近いわね」
含みのある声で、宵さんが微笑む。
「あなたの山に、また、新しいお客が来る。今度は——ずいぶん、遠くから」
遠くから。俺は湯桶を抱えたまま、首をかしげた。
「遠くから、ですか。この山奥まで、わざわざ? ……物好きな人もいるもんですね」
県外か、あるいは外国の人だろうか。うちみたいな辺鄙な場所まで足を運ぶ客なんて、たいてい相当の変わり者だ。もっとも、そういう人ほど、湯と飯を喜んでくれるのだけれど。
宵さんは、俺の的外れな返事に、ただおかしそうに目を細めた。何かを知っていて、けれど言わずにおく——そんな笑い方だった。
「そうね。ずいぶんな、変わり者。……楽しみになさい」
その"遠く"が、いったいどれほど遠いのか。そのときの俺は、まだ何ひとつ、思い至っていなかった。
冷えていく夜気の中で、祠跡だけが、ほのかな熱を帯びている。縁側の青い石が、それに応えるように、また一度、静かに光った。




