第198話
秋も、ずいぶん深くなった。
山の色が、日ごとに移り変わっていく。杉の緑に、櫨や楢の赤や黄が混じって、朝晩の冷えた空気のなかで、その錦がいっそう冴えて見える。
縁側でひと息つきながら眺めていると、今日もあちこちに、人の気配がある。
露天風呂のほうから、湯を使う静かな音がした。都会から来た客が二人、長湯を決め込んでいるらしい。
着いたときは、肩まで強張らせていた人たちだった。電話の鳴りやまない暮らしから、逃げるようにして山を登ってきた顔をしていた。それが今は、すっかり湯気の向こうでとろけている。
「……いい顔になったなあ」
誰にともなく呟いて、俺は湯呑みに口をつけた。来たときより、いい顔をして帰る。それが、いちばん嬉しい。
都会には、都会の疲れがある。ここには、それを預けて帰る場所がある。ただ湯に浸かって、飯を食って、ぼんやり山を眺めるだけで、人の顔はちゃんとほどけていくのだ。
散策路の高台からは、鞍馬さんの張りのある声が下りてくる。ベンチに腰を据えて、紅葉のかかった谷を見下ろしているのだろう。
「ふむ、この眺め……何度来ても、飽きんな」
石屋の検分のついでと言いつつ、あの人はいつも、眺めのいい場所にいちばん長く居座っていく。まあ、気に入ってもらえているなら、なによりだ。
作業場では、鉄本さんが持ち込んだ鉈を研いでいた。手を動かしながら、鼻をひくつかせて、かまどの気配をうかがっている。
「おい結城さん、飯はまだかよ。湯上がりに一杯やるにゃ、ちょうど腹の減る頃合いだろうが」
道具の相談に来たはずが、いつのまにか湯と飯が本命になっている。まあ、うまいもんを食わせろという客は、いい客だ。
こういう常連さんたちは、そろって舌も目も肥えている。安い湯にも、まずい飯にも、けっして首を縦に振らない。その連中が、わざわざ遠くから足を運んで、湯に浸かり、飯を待ち、日が暮れるまで語らっていく。悪い気は、しないものだ。
◇◇◇
台所に立って、夕餉の支度にかかる。新米を研ぎ、きのこをどっさり刻む。
かまどに火を入れると、赤いとかげがひょいと薪の間から顔を出した。
「あるじ、火はまかせろって! 今日もいい感じに炊けるぜ!」
エンが尻尾を揺らして、火の回りをちろちろと駆けていく。おかげで、この山のかまどは、いつ焚いても火加減が狂わない。
肩のあたりが、もぞもぞした。見れば、苔玉のコロがちょこんと乗っている。
「あるじ、きょうのおいも、ほくほくなの……おきゃくさん、よろこぶよぉ」
のんびりした声で、まんまるの目を輝かせる。こいつはいつも、畑のことになると、心底うれしそうだ。
風呂の縁では、スイがぷかぷか揺れていた。
「あるじ、今日のお湯も、最高の仕上がりですわ……お客さま、ずっと浸かっていらっしゃるでしょう?」
得意げに水面をきらめかせる。うちの湯がなかなか冷めないのは、山の水がいいからだろうと、俺は勝手に思っている。
◇◇◇
支度の合間に、俺は直売所へ品を並べに行った。
棚に採れたての根菜と新米を積んでおくと、翌朝にはきれいに空になっている。料金箱には、見慣れないコインや、つやつやした石が入っている。相変わらず、顔も合わせたことのない、奇特な常連さんだ。
「今日も、ずいぶん買ってくれたなあ」
棚の向こうには、雑木林があるきりだ。その先に誰が住んでいるのか、俺は知らない。ただ、俺が並べた根菜も新米も、いつも一晩できれいに引き取られていく。まるで、この山の恵みを、心待ちにしている誰かがいるみたいに。
どこの誰とも知れないのに、律儀にお返しを置いていく。その妙な律儀さが、俺はなんだか気に入っていた。
日が傾く頃、膳を整えて、みんなに声をかけて回った。
湯上がりの客が縁側に集まり、鉄本さんが上機嫌で杯を掲げ、鞍馬さんが高台から下りてくる。昼に山を一巡りしていった森野さんは、帰り際、「今年も、いい色になりましたね」と目を細めていた。夜には夜で、宵さんが発酵の話を提げて顔を出すだろう。
湯気の立つ鍋を囲む輪の外で、モクが作業台の上に腕を組んで、その賑わいをのんびり眺めている。
俺はふと、湯呑みを手にしたまま、その景色を見渡した。
思えば、おかしな話だ。独りになりたくて、誰もいない山を買ったはずだった。それが今は、湯があって、飯があって、話し声が絶えない。
都会の疲れを預けに来る客がいて、湯と飯と語らいを目当てにする腕のいい常連さんたちがいて、顔も知らないまま直売所の棚を空にしていく相手までいる。三つの、まるで別々の流れが、この一つの山で、いつのまにか静かに交わっている。みんなこの山に、それぞれ何かを求めてやってくるのだ。
「気づいたら、すごい場所になってたなあ、うち」
茶をひとくち含んで、俺は苦笑した。
「ただの隠居のつもりだったのに」
誰に頼まれたわけでもない。来た人が心地よく過ごせるように、あれこれ工夫を積んできただけだ。それがいつのまにか、これだけの人を呼ぶ場所になっている。……よほど、人に恵まれたのかな。我ながら、呑気なことを思う。
鍋がぐつぐつと煮え、湯気の向こうで誰かが笑った。エンがかまどで得意げに火を操り、コロが客の膝で、うとうとし始めている。
賑わう山を、俺はもう一度ぐるりと見渡した。それから、湯呑みを傾けて、のんびりと呟く。
「まあ、みんなが心地よさそうにしてるなら、それでいいか」
秋の日が、山の錦をゆっくりと染めながら、暮れていった。




