第197話
朝いちばんに直売所へ品を並べに行くのが、俺の一日のはじまりだ。
この数日、その足取りが、なんとなく変わった。棚に大根を積み、栗のかごを据え、料金箱の位置を直す——手はいつも通り動いているのに、意識のどこかが、祠跡のあたりへ引っ張られている。
空気が、震えている。
目には見えない。音もしない。それでも、水面に近づいた手がまだ触れる前から冷たさを感じるみたいに、そこだけ何かが薄くなっているのが、はっきり分かるのだ。
昨日より、今日。今日より、たぶん明日。日を追うごとに、その揺らぎは強くなっている。
「気のせい、で片づけられる範囲は、もう超えてるな」
俺は腕を組んで、庭の隅の直売所を眺めた。境目が、じわじわと薄くなっている。そういう手応えだった。
極めつけは、料金箱だ。
朝、品を並べて、夕に見にいくと、代わりの品が入っている。いつもの流れだ。だがこのところ、その入れ替わりに、これまでと違う密度がある。
うまく言えないのだが——手で受け取ったわけでもないのに、向こう側の"誰か"の熱が、じかに伝わってくる。ずしりと重い、感謝みたいなものが、箱ごしに押し寄せてくる。
いつもの奇特なお客さんは、律儀な人だ。俺が野菜を並べれば、きれいなコインや、見慣れない石を、きちんと置いていってくれる。その几帳面さは変わらない。
変わったのは、そこに込もる熱量のほうだ。ここ数日、料金箱を開けるたびに、「ありがとう」の圧が、明らかに増している。まるで、届けたい言葉が箱に入りきらなくて、あふれ出してくるみたいに。
拾い上げたコインは、いつもよりほんのり温かい気さえした。
「向こうの奇特なお客さん、なんだか……前より、近い気がするんだよな」
気のせいだ、と言い切れない自分がいる。要件定義でいうなら、これは「仕様が変わりかけているサイン」だ。裏側で、静かに何かが動いている。
俺はコインを陽にかざして、しばらく考えた。
「これは……何かが起きる前触れ、なのかもしれないな」
不思議と、嫌な予感じゃなかった。むしろ、玄関のチャイムが鳴る少し前の、あのそわっとした感じに近い。
「悪いことじゃない気がするけど。……うん、なんとなく、そういう匂いがする」
◇◇◇
その日、精霊たちの様子が、朝からずっとおかしかった。
まず、コロだ。いつもは俺の肩でうとうとしているのに、今日は落ち着かない。畝の上をころころ転がっては戻り、また転がる。
「あるじぃ、なんだかむずむずするの。ここ、へんなの。じっとしてられないよぉ」
まんまるの目を、しきりに祠跡のほうへ向けている。
スイは、直売所の縁でぷかぷかと揺れながら、水面をさざめかせていた。半透明の体の中を、細かな波紋がひっきりなしに走っている。
「あるじ、水が、ざわめくのですわ。……どんどん、大きくなっていますの。何かが、すぐそこまで来ていますわ」
得意げないつもの調子が、今日はどこか、息を潜めるようだった。
かまどのそばでは、エンが尻尾の先をぱちぱち鳴らして、火の粉を散らしていた。じっとしていられないらしく、赤い体を小刻みに震わせている。
「なんかさ、オレの中の火が、勝手に騒ぐんだよ! むずむずすんの! ……なあ、なんか来るのか? でっけえの、来るのか?」
そして、作業台の上のモク。
渋い顔をいっそう険しくして、鼻をひくひくと動かしている。風の匂いでも読むみたいに、じっと祠跡のほうを見据えていた。
「フン……この気配、ただ事じゃないな」
腕を組んだまま、モクは低く唸る。
「風が、いつもと違う方角から流れてくる。……ここではない、どこかの風だ。悪くはない。だが、でかいぞ、これは」
◇◇◇
四匹がそろって落ち着かない。
これは、けっこうな事態だ。俺は思わず背筋を伸ばした。
こいつらは、山のことなら俺よりずっと敏感だ。かまどの火加減も、湯の按配も、畑の土の機嫌も、いつだって俺の半歩先を読んでいる。そのコロが転がり、スイがざわめき、エンが火の粉を散らし、モクが唸っている。
四匹が口をそろえて「何か来る」と言っているのだ。
「みんなが落ち着かないってことは……本当に、何か来るな」
俺は祠跡を見つめて、ゆっくりと息を吐いた。
この一年半で、この山はずいぶんいろんなものを俺に運んできた。精霊が見えるようになり、腕のいい変わり者たちが集い、疲れた人が保養に来るようになった。そのたびに、暮らしは思いがけない方へ広がっていった。
独りになりたくて逃げてきた山が、気づけば人の集まる場所になっていた。予想外の連続だった。それでも、そのどれもが、悪くない方向へ転がっていったのだ。
だから、たぶん今度も大丈夫だ。根拠はないが、四匹がこれだけ落ち着かなくても、誰ひとり逃げ出そうとはしていない。むしろ、向こう側を覗き込むみたいに、そわそわしている。
そして今、また何かが、この庭の隅で目を覚まそうとしている。
「この山、まだ何か起きそうだ」
不安じゃなかった。ただ、静かに胸が高鳴っていた。……こういう感覚は、ずいぶん久しぶりだ。
コロを肩に乗せ、俺はもう一度、祠跡のほうを見やった。薄くなった境目の向こうで、誰かが、こちらへ手を伸ばそうとしている——そんな気が、どうしてもした。
「……さて。せいぜい、慌てないように、支度だけはしとくか」




