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山を買って古民家スローライフ 〜精霊たちと暮らすDIYな田舎暮らし〜  作者: 猫野いちば


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195/206

第195話

 秋の陽が、ネル村の畑をやわらかく染めていた。


 街道の果てにへばりつく、この小さな寒村も、いまでは見違えるほどに変わっている。行商のガロは、荷を背負い直しながら、刈り入れを待つ畑を見渡した。


 黄金色の穂が、風にさらさらと波打っている。畝には根菜の葉が青々と茂り、実の重みで枝がたわんでいる。


 ほんの数年前、この村には想像もつかなかった実りだ。痩せた土に、細い作物がまばらに立つばかりだった村が、である。


 村外れの広場では、女たちが収穫のかごを囲んで、賑やかに笑い合っていた。かごの中には、丸々と太った芋や、色づいた根菜が、あふれんばかりに積まれている。


 その足もとを、子どもらが歓声をあげて駆けまわっていた。頬にはしっかりと血の色が差し、痩せて青白かった面影は、もうどこにもない。


「秋の実りが、こんなにたっぷり……ほんとうに、ありがたいことだ」


 ガロは、しみじみとつぶやいた。


 飢えの冬は、遠い昔のことになった。森から降りてくる魔獣も、村を囲う神具の柵が、いつのまにか寄せつけなくなっている。


 病に臥せっていた者も、あの赤い霊薬を口にして起き上がり、いまでは畑仕事に汗を流している。この秋、村は誰ひとり欠けることなく、揃って収穫の喜びを分かち合っていた。


 隣の村からは、ネル村の実りを分けてほしいと、幾人もが訪ねてくる。あの、いちばん貧しかった村が、である。


 すべては、祠の恵みのおかげだった。


 村外れの辻には、真新しい祠が、秋の光を受けて白々と建っている。


 冬のあいだに村じゅうで建て直した、村の誇りだ。柱は磨き上げられ、屋根の飾りには、丹精込めた彫りが施されている。


 ガロは、いつものように、その前へ足を運んだ。


 祠には、今日もたくさんの供物が捧げられていた。金貨に、上等な毛皮に、ほのかな光をたたえた魔石。村の者が、持てるかぎりの上等なものを、感謝のしるしに置いていくのだ。


 この秋の実りを、村はまず祠へ供えた。刈り取ったばかりの穂の束が、みずみずしい果実が、祠の前にうずたかく積まれている。


 ガロは膝をつき、深く頭を垂れた。


 この祠の奥に、姿の見えぬ〝主さま〟がおられる。恵みを授け、村を飢えから救い、魔獣から守ってくださった、ありがたいお方が。


 けれど、村の誰ひとりとして、そのお姿を見た者はいない。声を聞いた者もいない。


 ただ、供物を捧げれば、翌朝には瑞々しい野菜や、見たこともない道具が、祠に現れている。それだけが、主さまがそこにおられる、たしかな証だった。


◇◇◇


 このごろ、村の者の願いは、日ごとに篤くなっていた。


 夕暮れになると、老いも若きも、祠の前に集まってくる。手を合わせ、恵みへの感謝を口々に唱えるのだ。


 長老は、皺の刻まれた手で子らの頭を撫でながら、繰り返し語り聞かせている。この村が、どれほどの恵みに生かされてきたか、決して忘れるな、と。


「わしらは、主さまに救われたのだ。この恩を、いつか、きちんとお返ししたい」


 長老の言葉に、村の者はみな、深くうなずいた。


 供物を捧げるだけでは、どうにも足りない。その思いが、いまや村じゅうに満ちている。


 立ち直ったいまだからこそ、みなが同じことを願うようになっていた。恵みをいただくばかりの村では、もういたくない、と。


 ある者は言う。一目でいい、主さまのお姿を、この目で拝みたい、と。


 ある者は言う。せめて一度、直にお会いして、この胸のうちの感謝を、じかにお伝えしたい、と。


 その願いは、もはや一人ひとりのものではなかった。村じゅうの祈りが、ひとつに束ねられ、祠の前へと、静かに、けれど熱く、注がれていく。


 ガロもまた、その真ん中にいた。


 この一年、幾度もここへ通い、幾度も手を合わせてきた。そのたびに、胸の奥で、ひとつの願いが、抑えきれぬほどに育っていた。


「祠の主さま」


 声が、秋の風にやわらかくとけていく。


 村はもう、飢えない。子らは笑い、畑は実り、村には笑い声が絶えない。こうして恵みを数え上げられるほどに、村はすっかり立ち直った。


 だからこそ、いま、ガロは思うのだ。恵みをいただくばかりでは、あまりに申し訳ないと。


「どうか、一度でいい……直に、お会いしとうございます」


 言葉を、ひとつずつ、選ぶように紡いでいく。


「この村を救ってくださったお礼を、じかに、申し上げたいのです」


 背後では、村じゅうの祈りの声が、低く、うねるように響いている。夕闇に灯された篝火が、祠をあたたかく照らし出していた。


 その、村じゅうの願いが最高潮に達した、まさにそのときだった。


◇◇◇


 ふいに、祠が、かすかに脈を打った。


 ガロは、はっと顔を上げた。


 石造りの古い祠が、まるで生き物のように、とくん、とくん、と、ゆるやかに震えている。捧げられた魔石の気配が、いつになく強く、ほのかに脈を打っていた。


「……これは」


 ガロは息を呑んだ。


 これまで、祠はただ静かに、供物と恵みを通すだけだった。捧げれば消え、朝には恵みが現れる——ただ、それだけの奇跡だった。


 だが、いまは違う。祠の奥から、これまで感じたことのない、あたたかな気配が、じわりと滲み出している。


 それは、供物を通すときの、あの淡い気配とはまるで違った。もっと大きく、もっと深く——モノよりも、はるかに大きな〝何か〟が、いまにも通り抜けてきそうな、そんな気配だった。


 ガロは、思わず祠にそっと手を伸ばした。


 石はひやりと冷たいはずなのに、指先に、ほのかなぬくもりが伝わってくる。まるで、向こう側に、たしかに〝どなたか〟がおられて、その息づかいが、石ごしに触れてくるかのようだった。


 村人たちも、その変化に気づいて、ざわめきはじめた。


「祠が……祠が、脈を打っておるぞ」


「主さまが、わしらの願いに、応えてくださったのか」


 誰もが息を詰め、祠を見守っている。篝火の向こうで、真新しい柱が、ほのかなぬくもりをまとって、かすかに脈打っていた。


 祠は、まだ開かない。


 通り抜けてくるものは、何もない。ただ、脈打つ気配だけが、たしかにそこにある。


 けれど、ガロには分かった。何かが、これまでとは決定的に、変わりはじめている。ずっと閉ざされていた向こう側との境が、いま、ほんのわずかに、薄らいでいるのだ。


 両側からの願いが、長い時をかけて、その境をそっと押している——そんな気さえした。


 ガロは、あらためて祠の前に額づいた。


 胸が、これまでにないほど熱く高鳴っている。長いあいだ、叶わぬものと思い込んでいた願いが、いま、確かな手ざわりを帯びて、すぐそこまで来ている気がした。


「祠の主さま……」


 声が、震えた。


「なんだか、近くに感じるのです。すぐ、そこに……おられるような」


 夕闇のなか、脈打つ祠を見つめ、ガロは祈るようにつぶやいた。


「もうすぐ——もうすぐ、お会いできる気がするのです」


 その願いが届いているのかどうか、ガロには分からない。向こう側がどこにあるのかも、誰ひとり知らないのだから。


 それでも、ガロは信じずにはいられなかった。この篤い祈りは、きっと、あのお方のもとへ届いている、と。


 脈打つ祠を、いつまでも、いつまでも、ガロは見守っていた。


◇◇◇


 その、はるか彼方で待たれている当の主さまは。


 山の中腹の直売所で、俺は品を並べ終え、暮れかけた空をのんびりと見上げていた。


 今日も、料金箱には見慣れぬ古いコインが入っている。相変わらず、律儀な常連さんだ。


「見えない常連さんも、元気にしてるといいけどなあ」


 誰にともなく、そうつぶやく。


 棚ひとつ隔てた向こうで、その〝常連さん〟が、脈打つ祠に額づいて、もうすぐ会えると信じていることなど、俺は何ひとつ知らない。


 ただ、秋の夕空を見上げて、のんきにそう思っているだけだった。


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