第195話
秋の陽が、ネル村の畑をやわらかく染めていた。
街道の果てにへばりつく、この小さな寒村も、いまでは見違えるほどに変わっている。行商のガロは、荷を背負い直しながら、刈り入れを待つ畑を見渡した。
黄金色の穂が、風にさらさらと波打っている。畝には根菜の葉が青々と茂り、実の重みで枝がたわんでいる。
ほんの数年前、この村には想像もつかなかった実りだ。痩せた土に、細い作物がまばらに立つばかりだった村が、である。
村外れの広場では、女たちが収穫のかごを囲んで、賑やかに笑い合っていた。かごの中には、丸々と太った芋や、色づいた根菜が、あふれんばかりに積まれている。
その足もとを、子どもらが歓声をあげて駆けまわっていた。頬にはしっかりと血の色が差し、痩せて青白かった面影は、もうどこにもない。
「秋の実りが、こんなにたっぷり……ほんとうに、ありがたいことだ」
ガロは、しみじみとつぶやいた。
飢えの冬は、遠い昔のことになった。森から降りてくる魔獣も、村を囲う神具の柵が、いつのまにか寄せつけなくなっている。
病に臥せっていた者も、あの赤い霊薬を口にして起き上がり、いまでは畑仕事に汗を流している。この秋、村は誰ひとり欠けることなく、揃って収穫の喜びを分かち合っていた。
隣の村からは、ネル村の実りを分けてほしいと、幾人もが訪ねてくる。あの、いちばん貧しかった村が、である。
すべては、祠の恵みのおかげだった。
村外れの辻には、真新しい祠が、秋の光を受けて白々と建っている。
冬のあいだに村じゅうで建て直した、村の誇りだ。柱は磨き上げられ、屋根の飾りには、丹精込めた彫りが施されている。
ガロは、いつものように、その前へ足を運んだ。
祠には、今日もたくさんの供物が捧げられていた。金貨に、上等な毛皮に、ほのかな光をたたえた魔石。村の者が、持てるかぎりの上等なものを、感謝のしるしに置いていくのだ。
この秋の実りを、村はまず祠へ供えた。刈り取ったばかりの穂の束が、みずみずしい果実が、祠の前にうずたかく積まれている。
ガロは膝をつき、深く頭を垂れた。
この祠の奥に、姿の見えぬ〝主さま〟がおられる。恵みを授け、村を飢えから救い、魔獣から守ってくださった、ありがたいお方が。
けれど、村の誰ひとりとして、そのお姿を見た者はいない。声を聞いた者もいない。
ただ、供物を捧げれば、翌朝には瑞々しい野菜や、見たこともない道具が、祠に現れている。それだけが、主さまがそこにおられる、たしかな証だった。
◇◇◇
このごろ、村の者の願いは、日ごとに篤くなっていた。
夕暮れになると、老いも若きも、祠の前に集まってくる。手を合わせ、恵みへの感謝を口々に唱えるのだ。
長老は、皺の刻まれた手で子らの頭を撫でながら、繰り返し語り聞かせている。この村が、どれほどの恵みに生かされてきたか、決して忘れるな、と。
「わしらは、主さまに救われたのだ。この恩を、いつか、きちんとお返ししたい」
長老の言葉に、村の者はみな、深くうなずいた。
供物を捧げるだけでは、どうにも足りない。その思いが、いまや村じゅうに満ちている。
立ち直ったいまだからこそ、みなが同じことを願うようになっていた。恵みをいただくばかりの村では、もういたくない、と。
ある者は言う。一目でいい、主さまのお姿を、この目で拝みたい、と。
ある者は言う。せめて一度、直にお会いして、この胸のうちの感謝を、じかにお伝えしたい、と。
その願いは、もはや一人ひとりのものではなかった。村じゅうの祈りが、ひとつに束ねられ、祠の前へと、静かに、けれど熱く、注がれていく。
ガロもまた、その真ん中にいた。
この一年、幾度もここへ通い、幾度も手を合わせてきた。そのたびに、胸の奥で、ひとつの願いが、抑えきれぬほどに育っていた。
「祠の主さま」
声が、秋の風にやわらかくとけていく。
村はもう、飢えない。子らは笑い、畑は実り、村には笑い声が絶えない。こうして恵みを数え上げられるほどに、村はすっかり立ち直った。
だからこそ、いま、ガロは思うのだ。恵みをいただくばかりでは、あまりに申し訳ないと。
「どうか、一度でいい……直に、お会いしとうございます」
言葉を、ひとつずつ、選ぶように紡いでいく。
「この村を救ってくださったお礼を、じかに、申し上げたいのです」
背後では、村じゅうの祈りの声が、低く、うねるように響いている。夕闇に灯された篝火が、祠をあたたかく照らし出していた。
その、村じゅうの願いが最高潮に達した、まさにそのときだった。
◇◇◇
ふいに、祠が、かすかに脈を打った。
ガロは、はっと顔を上げた。
石造りの古い祠が、まるで生き物のように、とくん、とくん、と、ゆるやかに震えている。捧げられた魔石の気配が、いつになく強く、ほのかに脈を打っていた。
「……これは」
ガロは息を呑んだ。
これまで、祠はただ静かに、供物と恵みを通すだけだった。捧げれば消え、朝には恵みが現れる——ただ、それだけの奇跡だった。
だが、いまは違う。祠の奥から、これまで感じたことのない、あたたかな気配が、じわりと滲み出している。
それは、供物を通すときの、あの淡い気配とはまるで違った。もっと大きく、もっと深く——モノよりも、はるかに大きな〝何か〟が、いまにも通り抜けてきそうな、そんな気配だった。
ガロは、思わず祠にそっと手を伸ばした。
石はひやりと冷たいはずなのに、指先に、ほのかなぬくもりが伝わってくる。まるで、向こう側に、たしかに〝どなたか〟がおられて、その息づかいが、石ごしに触れてくるかのようだった。
村人たちも、その変化に気づいて、ざわめきはじめた。
「祠が……祠が、脈を打っておるぞ」
「主さまが、わしらの願いに、応えてくださったのか」
誰もが息を詰め、祠を見守っている。篝火の向こうで、真新しい柱が、ほのかなぬくもりをまとって、かすかに脈打っていた。
祠は、まだ開かない。
通り抜けてくるものは、何もない。ただ、脈打つ気配だけが、たしかにそこにある。
けれど、ガロには分かった。何かが、これまでとは決定的に、変わりはじめている。ずっと閉ざされていた向こう側との境が、いま、ほんのわずかに、薄らいでいるのだ。
両側からの願いが、長い時をかけて、その境をそっと押している——そんな気さえした。
ガロは、あらためて祠の前に額づいた。
胸が、これまでにないほど熱く高鳴っている。長いあいだ、叶わぬものと思い込んでいた願いが、いま、確かな手ざわりを帯びて、すぐそこまで来ている気がした。
「祠の主さま……」
声が、震えた。
「なんだか、近くに感じるのです。すぐ、そこに……おられるような」
夕闇のなか、脈打つ祠を見つめ、ガロは祈るようにつぶやいた。
「もうすぐ——もうすぐ、お会いできる気がするのです」
その願いが届いているのかどうか、ガロには分からない。向こう側がどこにあるのかも、誰ひとり知らないのだから。
それでも、ガロは信じずにはいられなかった。この篤い祈りは、きっと、あのお方のもとへ届いている、と。
脈打つ祠を、いつまでも、いつまでも、ガロは見守っていた。
◇◇◇
その、はるか彼方で待たれている当の主さまは。
山の中腹の直売所で、俺は品を並べ終え、暮れかけた空をのんびりと見上げていた。
今日も、料金箱には見慣れぬ古いコインが入っている。相変わらず、律儀な常連さんだ。
「見えない常連さんも、元気にしてるといいけどなあ」
誰にともなく、そうつぶやく。
棚ひとつ隔てた向こうで、その〝常連さん〟が、脈打つ祠に額づいて、もうすぐ会えると信じていることなど、俺は何ひとつ知らない。
ただ、秋の夕空を見上げて、のんきにそう思っているだけだった。




