第193話
朝から、山がずいぶんと賑やかだった。
縁側では鉄本さんが胡座をかいて、湯呑みの茶をずずっとすすっている。庭先では鞍馬さんが腕を組み、高台のほうを見上げて何やら独り言ちていた。台所からは味噌汁の匂いが漂い、玄関先には近ごろよく顔を出す客が二人、遠慮がちに靴を脱いでいる。
俺はといえば、その真ん中で、両手に薪を抱えたまま立ち尽くしていた。
「……えーと、今日は何人分の飯を炊けばいいんだ、これ」
指を折って数えてみたが、途中でわからなくなった。まあ、多めに炊いておけば間違いない。米は、炊きすぎて困るものじゃないからな。
かまどに火を入れると、赤いとかげがぴょこんと現れて、尻尾の先をゆらゆら揺らした。
「あるじ、まかせろって! 今日は大盛りだな、腕が鳴るぜ!」
エンは大人数の日ほど張り切る。火の粉を散らしながら薪の隙間を選ぶように炎を回してくれるので、火の面倒はもう何も心配がいらない。
肩の上では、苔玉みたいなコロがまんまるの目で客たちを見下ろしていた。
「あるじ、きょうも、いっぱい来たなの」
「そうだなあ。賑やかで、いいだろ」
俺が言うと、コロは満足げに肩の上でころんと転がった。
◇◇◇
昼を回るころには、山のあちこちに人の気配が散らばっていた。
露天風呂のほうからは、湯を使う音と、くつろいだ話し声。散策路の奥では、客が落ち葉を踏みながら紅葉を見上げている。縁側の鉄本さんは、いつのまにか客の一人と道具談義で盛り上がっていた。
台所では、昼飯の支度がもう始まっている。大鍋で煮込んだ汁物の湯気が立ちのぼり、握り飯の匂いが土間いっぱいに広がっていた。誰かが箸を取り、誰かが茶をすすり、その合間から笑い声がこぼれる。飯の湯気と話し声は、朝からずっと途切れることがない。
縁側の端では、街から来たらしい若い客が、腹を抱えて笑っていた。その隣で、いつから居るのかもわからない常連が、我が物顔で茶請けの漬物をつまんでいる。互いに素性を尋ねるでもなく、ただ同じ日向を分け合っている。
人か、そうでないか。この山では、その境目はいつも曖昧だ。昼飯を囲む顔ぶれの中に、俺がまだ名も知らない相手が混じっていても、誰も気に留めやしない。
製材所の森野さんは、庭の隅にしゃがみ込んで、何もない空間に向かって穏やかに微笑んでいる。
「元気にしてたか。……ああ、そうか。今日は、ずいぶん賑やかだね」
森野さんは、時々こうして誰もいないところへ話しかける。俺に見えるのはうちの四匹だけだが、たぶん、もっと小さな精霊たちの相手をしているんだろう。この人は昔から、そういう気配に妙に敏い。
言われてみれば、日だまりの縁側のあたりに、時折きらきらと光の粒が揺れている気がした。客の膝先で、湯上がりの肩口で、小さな何かがふわりと遊んでいる。人と、人ならざるものと、目には見えない精霊たちと。みんなが同じ縁側の、同じ日向で寛いでいた。
作業台の上では、モクが腕を組んで一部始終を眺めていた。
「フン……騒がしいのは、嫌いじゃないがな」
そう言いながら、モクは満更でもなさそうに葉っぱの羽を揺らしている。
俺はふと、土間の真ん中で足を止めた。
誰かがいて、湯が沸いていて、飯の匂いがして、話し声が絶えない。ついこの前まで、この山は鳥の声のほかに何も聞こえない、しんと静まりかえった場所だったのにな。
初めてここに登ってきた朝のことを、俺はまだ覚えている。誰もいない縁側、火の消えたかまど、風の音だけがやたらと大きく響く庭。一日じゅう誰とも口をきかない日も、珍しくなかった。自分の足音さえ、やけに耳についた。
それが今は、どうだ。振り返れば、いつも誰かの背中がある。火の面倒を見る精霊がいて、飯をねだる声がして、湯を褒める客がいる。静けさを求めて逃げ込んだはずの山が、いつのまにか一番賑やかな場所になっていた。
「ここ、いつのまにか、誰でも立ち寄れる場所になったなあ。俺の家のはずが、妙な話だ」
独りになりたくて、逃げるみたいに登ってきた山だ。それがどうしてこうなったのか、自分でもよくわからない。……まあ、賑やかなのは、悪くない。
◇◇◇
日が暮れて、客たちがそれぞれ帰路につくころ。夜型の宵さんが、ふらりと現れて露天風呂を使っていった。
湯上がりの宵さんは、火照った頬に夜風を受けながら、縁側で一杯やっている。手にしているのは、自分で持ち込んだワインだ。
「ふふ……あなたの山は、境目がないのよ」
宵さんが、湯気の名残の向こうで、含みのある笑みを浮かべた。
「誰でも、何でも、隔てなく受け入れてしまう。だから、こんなに人が集まるの」
境目がない、か。俺は湯呑みを傾けながら、その言葉を頭の中で転がしてみた。よくわからないが、褒められているような気はする。
「そういうものですかね」
俺は曖昧に笑って、受け流した。たぶん、間口が広いとか、そういう意味だろう。門も塀もない山だから、誰でも勝手に入ってこられる。それだけの話だ。
スイが、風呂の縁でぷかぷかと揺れながら、得意げに声をあげた。
「あるじ、今日のお湯も、最高の仕上がりでしたわ」
「ああ、みんな喜んでたよ。ありがとうな、スイ」
湯冷めしない、いい湯だったと客も言っていた。うちの風呂は、なぜか評判がいい。まあ、のんびり長湯できるのが、いいんだろうな。
宵さんは、そんな俺と精霊のやり取りを、ただ静かに眺めていた。何か言いたげに、けれど何も言わずに、ゆっくりとワインを傾けている。
賑やかだった一日が、静かに暮れていく。星が出て、山はまた、いつもの静けさを取り戻していった。
……それでも、今夜はひとりじゃない。
そのことが、俺にはなんだか、くすぐったくて、ありがたかった。




