第190話
朝から、山がにぎやかだった。
この二、三日、示し合わせたわけでもないのに客が重なった。麓から車を乗り継いできた人、誰かの紹介でおずおずと訪ねてきた人。気づけば、平屋のあちこちに人の気配が散らばって、廊下を歩けば誰かの荷物や脱いだ上着に行き当たる。
一人になりたくて買った山で、こんなに人の声を聞く日が来るとは思わなかった。まあ、悪くない。むしろ、思っていたよりずっといい。
みんな、来たときはどこか顔が硬い。眉間に薄く皺が寄って、肩が耳のあたりまで上がっている。都会の疲れを、そっくりそのまま背負って登ってくるのが、遠目にも分かる。
だから俺は、余計なことは訊かない。湯を沸かして、飯を炊いて、あとは好きに過ごしてもらう。それだけだ。
露天風呂のほうからは、さっきから長い長いため息が聞こえてくる。
「はぁ……極楽だ」
湯に浸かった客が、もう小一時間もそこにいる。のぼせやしないかと様子を見にいくと、湯気の向こうで、すっかり肩の力の抜けた顔が、色づいた木々の向こうの空を見上げていた。
急かすのも野暮だ。俺は「ごゆっくり」とだけ言って、そっと引き返した。
湯の縁では、スイがぷかりと浮かんで、光を弾きながら揺れている。
「あるじ、今日のお湯も、最高の仕上がりですわ」
半透明の体が、湯面の照り返しをきらきらと反射する。得意げなその様子に、俺も思わず頬がゆるんだ。
◇◇◇
散策路のほうへ回ると、別の客が、燃えるような紅葉を見上げて立ち止まっていた。
先だって整えたばかりの道だ。丸太の階段を上りきった高台のベンチに腰かけて、その人は、色づいた山をただ静かに眺めている。急ぐでもなく、写真を撮るでもない。
「いい眺めでしょう」と声をかけると、「ええ、時間を忘れます」と、穏やかな返事が返ってきた。喜んでもらえたなら、道を直した甲斐がある。
道の脇の日だまりでは、コロがまんまるの体を落ち葉に半分埋めて、うとうとしていた。
「んん……ひなたぼっこ、きもちいいなの……」
まぶたが半分落ちて、今にも寝入りそうだ。忙しないのは俺ばかりで、こいつはこいつで、ちゃっかり秋を満喫している。
家に戻ると、縁側では、また別の客が文庫本を広げていた。膝に薄い日差しを乗せて、ページをめくる音だけが、ゆっくりと続いている。
声はかけずにおいた。こういう静かな時間こそ、たぶんこの人が欲しかったものだ。
街にいた頃の俺には、本を一冊読みきる時間さえなかった。ページを開いたまま眠り込んで、気づけば朝、なんてのが当たり前だった。だから、この人がここでゆっくりページをめくれているだけで、なんだか自分のことのように嬉しくなる。
縁側の端、俺の作業台の上では、モクが腕を組んで座っている。かんなくずの匂いの中で、渋い顔のまま、うつらうつらしているように見えた。
「フン……悪くない昼だな」
珍しく機嫌がいいらしい。人が寛ぐそばで、こいつらもこいつらで、思い思いに過ごしている。
◇◇◇
日が傾くと、みんな自然と土間のほうへ集まってきた。
夕餉は、秋の膳だ。土鍋で炊いた新米に、きのこをどっさり入れた汁、根菜の煮物、囲炉裏で炙る秋刀魚。かまどでは、エンが尻尾を揺らして火加減を見てくれている。
「あるじ、火は任せろって! 今日の飯も、最高に炊けるぜ!」
薪がぱちぱちと爆ぜ、蓋の隙間から甘い湯気がふっくら立ちのぼる。この匂いだけで、もう腹が鳴った。
蓋を開ければ、炊きたての新米が一粒ずつ立って、つやつやと照っている。汁からはきのこの出汁がふわりと香り、囲炉裏では秋刀魚の脂がじゅうじゅうと音を立てた。並べただけで、食卓が秋そのものになる。
膳を囲むと、さっきまで家じゅうに散らばっていた客が、いつのまにか一つの輪になっていた。湯上がりの人、紅葉に見とれていた人、本を読んでいた人。誰もが、来たときよりずっと、やわらかい顔をしている。
箸が進み、あちこちで小さな笑い声が上がる食卓を眺めながら、俺は飯をよそう手をふと止めた。
「みんな、来たときより、いい顔になって帰るんだよな」
肩に食い込んでいた強張りが、湯と飯と、この山のなんでもない時間で、するするほどけていく。その顔を見られることが、俺にはたまらなく嬉しい。
「それが一番、嬉しいんだよな」
誰に言うでもなく、俺は小さく呟いていた。
◇◇◇
翌朝、帰り支度を終えた客の一人が、玄関先で山を振り返った。
澄んだ朝の空気を胸いっぱいに吸い込んで、それから、しみじみとこう言った。
「ここ、本当にいい場所ですね。……宿じゃないのが、もったいないくらい」
俺は思わず笑ってしまった。
「はは、ただの俺の家ですよ」
手を振って見送りながら、少し可笑しくなる。宿だなんて、大げさな。ただ、来た人が湯に浸かって、飯を食って、のんびりしていくだけの、ごく普通の家だ。
……まあ、そう言ってもらえるなら、布団を干した甲斐もあるってものか。
軽トラが山道の向こうへ消えるまで、俺は玄関先に立っていた。今日もまた、誰かが登ってくるかもしれない。それはそれで、悪くない。




