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山を買って古民家スローライフ 〜精霊たちと暮らすDIYな田舎暮らし〜  作者: 猫野いちば


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190/212

第190話

 朝から、山がにぎやかだった。


 この二、三日、示し合わせたわけでもないのに客が重なった。麓から車を乗り継いできた人、誰かの紹介でおずおずと訪ねてきた人。気づけば、平屋のあちこちに人の気配が散らばって、廊下を歩けば誰かの荷物や脱いだ上着に行き当たる。


 一人になりたくて買った山で、こんなに人の声を聞く日が来るとは思わなかった。まあ、悪くない。むしろ、思っていたよりずっといい。


 みんな、来たときはどこか顔が硬い。眉間に薄く皺が寄って、肩が耳のあたりまで上がっている。都会の疲れを、そっくりそのまま背負って登ってくるのが、遠目にも分かる。


 だから俺は、余計なことは訊かない。湯を沸かして、飯を炊いて、あとは好きに過ごしてもらう。それだけだ。


 露天風呂のほうからは、さっきから長い長いため息が聞こえてくる。


「はぁ……極楽だ」


 湯に浸かった客が、もう小一時間もそこにいる。のぼせやしないかと様子を見にいくと、湯気の向こうで、すっかり肩の力の抜けた顔が、色づいた木々の向こうの空を見上げていた。


 急かすのも野暮だ。俺は「ごゆっくり」とだけ言って、そっと引き返した。


 湯の縁では、スイがぷかりと浮かんで、光を弾きながら揺れている。


「あるじ、今日のお湯も、最高の仕上がりですわ」


 半透明の体が、湯面の照り返しをきらきらと反射する。得意げなその様子に、俺も思わず頬がゆるんだ。


◇◇◇


 散策路のほうへ回ると、別の客が、燃えるような紅葉を見上げて立ち止まっていた。


 先だって整えたばかりの道だ。丸太の階段を上りきった高台のベンチに腰かけて、その人は、色づいた山をただ静かに眺めている。急ぐでもなく、写真を撮るでもない。


「いい眺めでしょう」と声をかけると、「ええ、時間を忘れます」と、穏やかな返事が返ってきた。喜んでもらえたなら、道を直した甲斐がある。


 道の脇の日だまりでは、コロがまんまるの体を落ち葉に半分埋めて、うとうとしていた。


「んん……ひなたぼっこ、きもちいいなの……」


 まぶたが半分落ちて、今にも寝入りそうだ。忙しないのは俺ばかりで、こいつはこいつで、ちゃっかり秋を満喫している。


 家に戻ると、縁側では、また別の客が文庫本を広げていた。膝に薄い日差しを乗せて、ページをめくる音だけが、ゆっくりと続いている。


 声はかけずにおいた。こういう静かな時間こそ、たぶんこの人が欲しかったものだ。


 街にいた頃の俺には、本を一冊読みきる時間さえなかった。ページを開いたまま眠り込んで、気づけば朝、なんてのが当たり前だった。だから、この人がここでゆっくりページをめくれているだけで、なんだか自分のことのように嬉しくなる。


 縁側の端、俺の作業台の上では、モクが腕を組んで座っている。かんなくずの匂いの中で、渋い顔のまま、うつらうつらしているように見えた。


「フン……悪くない昼だな」


 珍しく機嫌がいいらしい。人が寛ぐそばで、こいつらもこいつらで、思い思いに過ごしている。


◇◇◇


 日が傾くと、みんな自然と土間のほうへ集まってきた。


 夕餉は、秋の膳だ。土鍋で炊いた新米に、きのこをどっさり入れた汁、根菜の煮物、囲炉裏で炙る秋刀魚。かまどでは、エンが尻尾を揺らして火加減を見てくれている。


「あるじ、火は任せろって! 今日の飯も、最高に炊けるぜ!」


 薪がぱちぱちと爆ぜ、蓋の隙間から甘い湯気がふっくら立ちのぼる。この匂いだけで、もう腹が鳴った。


 蓋を開ければ、炊きたての新米が一粒ずつ立って、つやつやと照っている。汁からはきのこの出汁がふわりと香り、囲炉裏では秋刀魚の脂がじゅうじゅうと音を立てた。並べただけで、食卓が秋そのものになる。


 膳を囲むと、さっきまで家じゅうに散らばっていた客が、いつのまにか一つの輪になっていた。湯上がりの人、紅葉に見とれていた人、本を読んでいた人。誰もが、来たときよりずっと、やわらかい顔をしている。


 箸が進み、あちこちで小さな笑い声が上がる食卓を眺めながら、俺は飯をよそう手をふと止めた。


「みんな、来たときより、いい顔になって帰るんだよな」


 肩に食い込んでいた強張りが、湯と飯と、この山のなんでもない時間で、するするほどけていく。その顔を見られることが、俺にはたまらなく嬉しい。


「それが一番、嬉しいんだよな」


 誰に言うでもなく、俺は小さく呟いていた。


◇◇◇


 翌朝、帰り支度を終えた客の一人が、玄関先で山を振り返った。


 澄んだ朝の空気を胸いっぱいに吸い込んで、それから、しみじみとこう言った。


「ここ、本当にいい場所ですね。……宿じゃないのが、もったいないくらい」


 俺は思わず笑ってしまった。


「はは、ただの俺の家ですよ」


 手を振って見送りながら、少し可笑しくなる。宿だなんて、大げさな。ただ、来た人が湯に浸かって、飯を食って、のんびりしていくだけの、ごく普通の家だ。


 ……まあ、そう言ってもらえるなら、布団を干した甲斐もあるってものか。


 軽トラが山道の向こうへ消えるまで、俺は玄関先に立っていた。今日もまた、誰かが登ってくるかもしれない。それはそれで、悪くない。


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