第189話
このところ、山を訪ねてくる人が、判で押したように同じことを言う。
「ここ、なんだか……不思議と落ち着きますね」
湯から上がった客も、飯を平らげた客も、縁側でぼんやりしていた客も、帰りぎわに決まってそう漏らす。うまく説明できない、という顔で首をかしげながら。
「何かが違うんですよ。空気っていうか、流れっていうか」
そう言われるたび、俺は照れくさくなって頭をかく。よほど気に入ってくれたらしい。もてなす側としては、これほど嬉しい言葉もない。
まあ、それなりに工夫はしてるからな。内心、ちょっとだけ得意になる。
布団はすぐ出せる場所にまとめてあるし、動線も迷わないよう見直した。よく聞かれることは品書きの脇に貼ってある。客がなるべく気を使わず、探したり迷ったりせずに済むように、細かいところを詰めてきた。
段取りを整えておけば、来た人が困らない。前の職場で覚えた理屈が、こんなところで役に立つとは思わなかった。
だから、みんなが寛いでくれるのは、その工夫のおかげ――と、半分は本気でそう思っている。
◇◇◇
風呂は、うちの一番の自慢だ。
露天の湯に浸かった客は、たいてい長湯になる。「いつまでも冷めないんですよ、このお湯」と、のぼせる寸前まで出てこない人もいる。肩まで沈んで、ほうっと息を吐いて、すっかり骨抜きだ。
湯の縁では、半透明のスイがぷかぷかと揺れている。
「あるじ、今日のお湯も最高の仕上がりですわ」
得意げに胸を張るスイに、俺は「だな」と相槌を打つ。山の湧き水がいいんだろう。柔らかくて、肌に染みるようなこの湯は、街の風呂ではまず味わえない。水がうまい土地は、湯もうまいってことだ。
湯冷めしないよう脱衣所に囲いを作ったのも効いてるのかもな、なんて考える。詰めるべきところを詰めれば、湯はちゃんと応えてくれる。そういうものだ。
飯もそうだ。かまどで炊いた米を茶碗によそうと、客はまず湯気に目を細め、ひと口食べて、たいてい黙り込む。それから、しみじみ「うまい」と言う。
かまどのそばでは、赤いエンが尻尾をゆらゆらさせて番をしている。
「あるじ、火はオレに任せろって! 今日も最高に炊けるぜ!」
このかまど、本当に火が素直なんだよな、と俺は思う。薪の隙間を選ぶように炎が回って、火加減がぴたりと決まる。焦げつくこともなければ、芯が残ることもない。いつ炊いても、判で押したように、ちょうどいい。
いい道具と、いい米。それだけあれば、飯は勝手にうまくなる。腕なんて、たいして関係ない。俺はそう思っている。
客が「毎日こんな米を食べてるんですか」と目を丸くするのも、まあ、山の米がいいからだ。棚田に近い畑で、水も土も申し分ない。うまくないはずがない。
肩の上では、苔玉みたいなコロがまんまるの目でうとうとしている。梁のあたりでは、モクが葉っぱの羽をひらりとひるがえして、家の中に涼しい風を通していく。
この家は、妙に空気がこもらない。畳の匂いも、土間の匂いも、いつだって澄んでいる。長く座っていても頭が重くならず、客はいつのまにか、強張った肩をほどいてしまう。
「空気がいい」と口をそろえるのも、まあ、山の中腹だからな。木が多いし、風がよく抜ける。土の匂いが、どこか安心させるんだろう。
どれもこれも、この山が持っている力だ。俺はただ、その恵みをうまく使わせてもらっているだけ。そう考えると、なんだか申し訳ないような、ありがたいような気持ちになる。
「うちの居心地の良さは、山のおかげだな」
縁側に腰かけて、俺はひとりごちる。
「水がいいし、空気がいいし……いい山を、安く買えたもんだ。立地の勝利だな」
我ながら、いい買い物をした。ボロ家だと思って手を出した山が、こんなに人を寛がせる場所になるとは。運がよかった、としか言いようがない。
◇◇◇
その日も、客はすっかり満ち足りた顔で山を下りていった。
「特別な場所ですね」と、何度も振り返りながら。「また、絶対に来ます」と、来たときとは別人みたいな顔で。
見送りながら、俺は少しくすぐったい気持ちになる。特別、と言われるほどのことは、何もしていないつもりなんだけどな。うまい水と、うまい米と、よく抜ける風。あるものを、あるように使っているだけだ。
残った俺は、縁側で四匹の相棒たちを眺める。スイは湯の見張りへ、エンはかまどの残り火へ、コロは畑の土へ、モクは風の通り道へ。誰に頼まれたわけでもなく、いつものように、それぞれの持ち場へ散っていく。
変わったやつらだと思う。湯を見て、火を見て、土と風を見て、こいつらなりに家のことを手伝ってくれている。それは、もうわかっている。
ただ、しょせんは小さな手伝いだ。それで客の顔つきまで変わるわけもない。居心地の良さは、やっぱりこの山のものだろう。
俺はそう思って、それ以上は考えない。あるものに感謝して、来た人に喜んでもらえれば、それで十分だ。理屈は、六十点で置いておく。
客は「何かが違う」と感じ、俺は「立地がいいだけ」と胸を張り、四匹は当たり前の顔で湯を整え、火を熾し、土と風を和ませる。その途方もない食い違いに、気づいている者は、この山にひとりもいなかった。




