第188話
風呂と飯でひと息ついた客が、縁側から山のほうへ目をやっている。その横顔が、なんだか物欲しそうに見えた。
紅葉が色づき始めた尾根を、行ってみたそうに眺めているのだ。だが、家のまわりから先は下草が伸び放題で、とても人を歩かせられる道じゃない。
「せっかく山に来たんだ。風呂と飯だけじゃもったいないよな」
俺は湯呑みを置いて、腕まくりをした。
山を、まるごと味わってほしい。そう思ったら、もう体が動いていた。まずは道づくりだ。要件はひとつ、「客が安心して、山を一周できること」。あとはそこから逆算すればいい。
◇◇◇
翌朝、鎌を片手に、俺は伸びた下草と格闘していた。
露に濡れた笹をざくざくと刈り倒し、人ひとりが余裕をもって歩ける幅を通していく。刈るそばから足元があらわになり、地面の起伏が見えてくる。この「見えてくる」感覚が、地味に気持ちいい。
やみくもに刈るわけでもない。歩きやすい傾きを選び、木の根や大きな石を避けて、線をなだらかに引いていく。急がば回れで、少し遠回りでも足に優しい道のほうが結局は正解だ。
問題は、途中の急な段差だった。木の根と土がむき出しで、雨あがりなら確実に滑る。年配の客が来たら、まず転ぶ。
「ここは、階段を組むか」
物置から丸太を引っ張り出し、長さを揃えて切る。地面を段々に掘り、丸太を横に据えて、両端に杭を打ち込んで固定する。裏に土をぎゅっと詰めて踏み面を平らにならせば、一段のできあがりだ。
これを、一段、また一段と積み上げていく。段の高さを揃えないと、かえってつまずくもとになる。だからひと足ぶんの歩幅を測って、律儀に同じ高さで刻んでいった。手間はかかるが、こういうのは横着すると必ず後で痛い目を見る。
三段目を踏んで体重をかけてみる。びくともしない。よし、これなら大人が駆け下りても、まず転ばないだろう。
◇◇◇
道が尾根に近づいたころ、ふいに風が動いた。
俺の前をすうっと先回りするように、藪の枝がひとりでにしなって、道を空けていく。見上げると、葉っぱの羽を持つムササビが、渋い顔で腕を組んで浮かんでいた。モクだ。
「フン、この道の付け方、悪くない」
鼻を鳴らしながらも、モクは満更でもなさそうだ。ふわりと風を通すと、行く手をふさいでいた枯れ枝が、かさりと払われて脇へ寄る。おかげで鎌の仕事がぐんと楽になった。
そのモクが、途中でぴたりと止まって、右のほうを顎でしゃくった。
「ここを曲げれば、いちばんいい紅葉が見える」
言われるまま、まっすぐ通しかけた道を、ゆるく右へ振ってみる。数歩進んで――思わず足が止まった。木々の切れ間の向こう、谷ぜんぶが燃えるように色づいて見えたのだ。
「……ほんとだ。こいつは、玄人の目だな」
俺ひとりなら、まっすぐ最短で通していた。眺めのことなんて、頭になかった。道は、通せばいいってもんじゃないらしい。
その紅葉のいちばん映える高台に、腰かけて眺められる場所を作ることにした。太い丸太を二本、脚がわりに深く埋め、上に平らに削った座板を渡す。座り心地が悪いと台無しだから、座板の角は鉋で丸く落として、手のひらで撫でてもささくれ立たないところまで仕上げた。
水平器をあてて、がたつかないよう脚を微調整すると、ちょうど谷が正面にくる高さに収まった。ベンチひとつで、ただの斜面が「眺めのいい場所」に化ける。
帰り道の途中には、岩の裂け目から湧き水が出ている。冷たくて、うまい。落ち葉が溜まっていた縁をさらって、竹を割って作った柄杓を一本、そっと添えておいた。喉が渇いたら、一杯どうぞ、というわけだ。
分かれ道には、板きれを削って小さな道標も立てた。焼いた釘で「もみじの みち」「わきみずの ば」と焼き付けて、傾かないよう根元を突き固める。字は下手くそだが、まあ、味ということにしておこう。
仕上げに一周、自分の足で歩いてみる。刈った道を踏み、階段を下り、ベンチに座り、水を一杯。分かれ道では道標を確かめて、また戻る。うん、これなら、初めての人でも迷わず山を回れるだろう。
「よし、道は開通。……なんだか、山ぜんぶが庭になった気分だな」
◇◇◇
道が整ったのを試すように、その日の客を散策に送り出してみた。
落ち葉を踏む、さくさくという足音が、尾根のほうへ遠ざかっていく。丸太の階段をひとつずつ下り、道が右へ振れたところで、客が「わあ」と声を上げるのが聞こえた。ちゃんと、あの谷が見えたらしい。
ベンチに腰かけて、しばらく動かない。よほど気に入ったのか、そのままぼんやり紅葉を眺めている。その背中が、来たときよりずっと軽く見えた。
俺は道具を片づけながら、その様子を遠くから見ていた。なんだか、こっちまで胸のあたりが温かくなってくる。
「喜んでもらえると、作った甲斐があるなあ」
風呂と飯だけだった山が、いつのまにか、まるごと客をもてなす場所になっている。家の中も、山も、境目がなくなってきた。
肩に、ふわりと風が触れた。モクが「悪くない出来だ」とでも言いたげに、渋い顔のまま、紅葉の谷を見下ろしていた。




