第186話
露天風呂は、うちに来た人がいちばん喜んでくれる場所だ。
山肌を額縁にした湯船に浸かって、はあ、と長いため息をつく。あの顔を見るたび、鞍馬さんと一冬かけて作った甲斐があったと思う。
ただ、前々から一つ、気になっていることがあった。着替えの場所が、あんまりにも簡素なのだ。
湯船のわきに平らな石を一枚置いて、そこで脱ぎ着してもらっているだけ。屋根もなければ囲いもない。
先日来た客が、脱いだ服を胸に抱えたまま、きょろきょろとあたりを見回していた。あれは、どこに置いていいか分からず、気兼ねしていたんだろう。
「せっかく気持ちよくなってもらう場所なのに、その手前でそわそわさせちゃ、本末転倒だよな」
俺は縁側に図面を広げて、腕を組んだ。要件は、はっきりしている。安心して脱いで、安心して着られること。それだけだ。
◇◇◇
まずは、地ならしからだ。
湯船の脇の、いちばん風の通らない一角を選ぶ。ここなら囲いを立てれば、湯冷めの心配も減る。
土を突き固めて水平を出し、その上に沓脱ぎの石を据える。濡れた足で土を踏ませたくないから、床は一段上げて板張りにするつもりだった。
根太を組み、その上に杉板を並べていく。板と板のあいだは、ほんのわずか隙間を空ける。水はけのためだ。
この隙間の幅が、地味に悩ましかった。広すぎれば足の指がはまるし、狭すぎれば水が引かない。何度か板をずらして、指の腹で当たりを確かめて、五分ほどの隙間に落ち着いた。
釘の頭も、板の面より一段沈むまで打ち込んでおく。素足で歩く床だ。ほんの少しの出っ張りが、あとで痛い思いのもとになる。
「濡れたまま上がっても、水がすっと下に落ちる。板の上に溜まらなきゃ、足も冷たくない」
こういう理屈を一つずつ詰めていく作業は、性に合っている。昔、仕様書の抜けを潰していた頃と、頭の使い方はそう変わらない。
ただ、返ってくるのが不具合報告じゃなく、素足に優しい床だというだけで、こんなにも気分がいい。
板を張り終えて、素足で踏んでみる。ひやりとしない。木のぬくもりが、じんわり伝わってくる。
「うん、上出来だ。素足に優しい、いい床になった」
◇◇◇
床ができたら、次は棚だ。
脱いだ服を、地べたにも石の上にも置かせたくない。きちんと畳んで納められる場所がいる。
余っていた板で、三段の棚をあつらえた。上の段は手ぬぐいや着替えを、真ん中は畳んだ服を、下は籠を置けるように高さを変える。角はぜんぶ面取りして、ぶつけても痛くないよう丸めておいた。
棚の脇には、湯上がりに一杯飲めるよう、水を張った甕を据える。柄杓を添えて、竹の筒で山の湧き水を引き込んだ。ほてった体に、冷たい水はごちそうだ。
手ぬぐいを掛ける横木も、忘れずに一本渡しておいた。使ったあと、さっと絞って干せる場所があるのとないのとでは、次に来た人の気分がまるで違う。
仕上げは、目隠しと囲いだった。
湯のほうから吹き上げてくる風を、じかに当てたくない。かといって、ぐるりと塞いでしまえば、あの山の眺めが台無しになる。
そこで、葦簀を使うことにした。腰から上は透かして、下は板でしっかり囲う。座って着替えるあいだは風を切って、立てば山が見える。その高さを、何度も立ったり座ったりして確かめた。
「濡れた足で冷たい思いをさせちゃ、せっかくの湯が台無しだからな。細部が大事だ」
我ながら、しつこいくらい詰めている自覚はある。でも、こういう細かいところの居心地って、あとからじわじわ効いてくるものだ。
◇◇◇
日が傾く頃、湯船のほうから、ちゃぷん、と小さな音がした。
見ると、湯の縁で半透明のスイが、ぷかぷかと揺れている。水面みたいに光を反射させながら、こちらを見上げていた。
「あるじ、今日のお湯も最高の仕上がりですわ」
得意げに胸を張る——ように、まんまるの体をぷるんと弾ませる。
言われて手を浸してみると、たしかに湯の当たりがやわらかい。夕方になっても、ちっとも温度が落ちていなかった。
「……脱衣所ができたら、もっと喜ばれますわよ」
スイはそう付け足して、ちゃぷちゃぷと湯を波立たせた。
なんだか、こいつのほうが、来る人のことを分かっている気がする。
「そうだな。せっかく最高の湯に入ってもらうんだ。その前後まで、ちゃんとしたいよな」
俺が言うと、スイは満足そうに、ゆっくり一回転してみせた。
できあがった脱衣所を、あらためて見渡す。板張りの床、面取りした棚、湧き水の甕、葦簀ごしに透ける夕暮れの山。手前味噌だが、なかなかいい仕上がりだ。
試しに座ってみると、風はきれいに切れていて、それでいて、顔を上げれば茜色の稜線がまっすぐ目に入った。
湯上がりに、ここで火照りを冷ましながら山を眺める。そう想像するだけで、なんだか自分が客になった気分で、少しにやけてしまう。
「風呂は、うちの一番の自慢だからな。ちゃんとしないと」
満足げに頷いて、俺はもう一度、素足で床を踏みしめた。
ひんやりしない木の感触が、やっぱり気持ちよかった。




