第181話
秋が深まってくると、山を訪ねてくる人が、ぽつぽつと増えてきた。
きっかけは、たぶん夏に泊めた元同僚の三上だ。すっかり顔色を取り戻して帰っていったあと、どうやら「山にいい場所がある」と、疲れた誰かに話したらしい。
噂というのは、案外そういう細い道を伝っていくものだ。宣伝したわけでも、看板を出したわけでもないのに、人づてに、じわじわと。疲れている人ほど、そういう話に耳ざとい。
最初の一人が来たのは、彼岸を過ぎたころだったか。それから五日と空けず、また別の人が上がってきた。多いわけじゃない。数日にひとり、多くて週にふたり。それでも、独り暮らしのこの山にしては、たしかな変化だった。
その朝も、直売所に品を並べていると、麓の道をおそるおそる上がってくる人影があった。
「あの……三上さんに、紹介されまして」
そう言って頭を下げる人は、たいてい肩が強張っていて、目の下に濃い隈をこしらえている。見覚えのある顔つきだ。一年半前、鏡の中で毎朝そういう顔と睨めっこしていた。
だから、放ってはおけない。
「まあ、上がってください。何もないところですけど、湯くらいは沸かせますから」
俺は品出しを切り上げて、その人を家へ通した。
◇◇◇
こういうとき、体が勝手に動きだす。
まずかまどに火を入れて、湯を沸かす。米を研いで水に浸し、その間に押し入れから客用の布団を引っ張り出して、日の当たる縁側に干す。それから戸棚を漁って、まだ下ろしていないタオルを一枚探し出す。
冷蔵庫と睨めっこしながら、献立をとっさに組み立てる。きのこがあるから汁物。大根と油揚げの煮物、卵焼き、漬物を何種類か。飯さえ炊ければ、あとは山の采配でどうにでもなる。
畑に出て、青菜と、抜き頃の大根を一本。汁の実に、裏山でこの時季に出るなめこも足す。手が空けば体が畑や山へ向くのは、二年目にしてすっかり染みついた癖だった。
湯を張った風呂に客を通して、疲れをほどいてもらっているあいだに、膳を整える。土鍋の蓋を持ち上げると、白い湯気がぶわりと立ちのぼり、粒の立った飯が照りかえす。炊きたての飯を茶碗に山盛りによそうと、湯気の向こうで、客がふっと肩の力を抜くのがわかる。
その顔を見ると、こっちまで嬉しくなるから不思議だ。
「困ってる人は、放っておけないよな。俺も、そうだったし」
誰にともなく、そう呟く。恩を返すというより、送る、みたいな感覚だ。もらったものは、次の誰かに回していけばいい。理屈はうまく言えないが、そのほうが据わりがいい。
◇◇◇
もっとも、俺の段取りだけで回っているわけではないらしい。
客が来るたび、肩のあたりでコロがそわそわと弾む。
「あるじ、おきゃくさま、また来たよぉ」
まんまるの目を輝かせて、モフモフの体を上下させる。この山は、来客が好きらしい。
俺が米を研いでいる横では、スイがぷかぷかと風呂場のほうへ流れていく。
「お湯は、わたくしにお任せくださいまし。ぬるくならないよう、張っておきますわ」
得意げに言い残して、湯の縁で待ち構えているのだから、頼もしい。かまどでは、エンが尻尾をゆらしながら薪の隙間を睨んでいる。
「火加減はまかせろって! 飯、うまく炊いてやるぜ!」
そして座敷では、モクが客用の座卓を、すっと風で払って据え直していた。
「フン、客を通すなら、埃くらい落としておくものだ」
……こいつら、俺よりよっぽど、もてなし慣れしている気がする。
俺が慌てて布団やらタオルやらを探しているあいだ、精霊たちは当たり前の顔で持ち場につく。まるで、こうなるのを知っていたみたいに。
昔はこの家、長いこと空き家だったと聞く。誰も来ず、誰も泊まらず、火も湯も絶えていた家だ。それが今は、数日おきに人が上がってきて、飯の匂いと湯気で満ちる。精霊たちがはしゃぐのも、わからなくはない。にぎやかなのは、たぶん、悪くないのだ。
◇◇◇
その日の客も、翌朝には晴れた顔になって、山を下りていった。
「また、来ていいですか」
別れ際にそう聞かれて、俺は「もちろん」と笑って手を振った。近所の人が茶を飲みに寄るのと、たいして変わらない。来たい人が来て、うまい飯を食って、少し軽くなって帰る。ただそれだけのことだ。
見送ったあと、家の中はちょっとした戦場だった。
干しっぱなしの布団、出しっぱなしの膳、探し回って開けたままの戸棚。片づけながら、我ながら苦笑いが漏れる。
「毎回バタバタするなあ」
布団を畳み、茶碗を重ね、タオルを元の場所に戻す。そのたびに「あれ、これどこにしまったっけ」と探すのが、地味に手間だった。
……ちゃんと迎える準備を、先にしておいたほうがいいかもな。
布団も、タオルも、よく使う器も、決まった場所にまとめておけば、次に誰か来ても慌てずに済む。人が来るのは嬉しいが、そのたびに家じゅうをひっくり返すのも、そろそろ考えものだ。
畳んだ布団を抱えたまま、俺はぼんやりと土間を眺めた。秋の日差しが、干したての布団をあたたかく照らしていた。




