第180話
三上を見送ってから、もう三日が過ぎた。
軽トラの助手席から、擦り切れた顔の男が消えて、山にはまた、いつもの静けさが戻ってきた。蝉の声、風が梢を鳴らす音、遠くの沢のせせらぎ。それだけが、朝から晩まで、途切れずに続いている。
俺は縁側に腰を下ろして、湯呑みに注いだ茶を、ゆっくりとすすった。
夏の午後の日差しが、庭の隅の直売所の棚を白く照らしている。畑のトマトは相変わらず真っ赤に膨らんで、風呂の煙突からは、昨夜の残り香みたいに、かすかに薪の匂いが漂っていた。
何もかもが、三上が来る前と、同じ場所に戻っている。
なのに、なんだろう。この山が、ほんの少しだけ、前より広くなったような……そんな気がした。
茶を飲みながら、俺はこの夏のことを、ぼんやりと振り返っていた。
思えば、この山に、俺以外の人間が泊まりに来たのは、初めてのことだった。
都会で一緒に働いていた頃の三上から、ある夕方、久しぶりの電話がかかってきた。無理に張った明るい声の奥に、聞き覚えのある擦り切れた響きがあって、俺はほとんど反射的に「うちに来いよ」と言っていた。
迎えに行った駅の改札から現れた三上は、正直、幽霊みたいな顔をしていた。
肩の落ちたスーツ、青白い頬、目の下の濃い隈。一年前、鏡の中で毎朝見ていた自分と、うんざりするほどそっくりだった。
「昔の俺を、鏡で見てるみたいだったな」
ぽつりと呟いて、俺は苦笑した。あの頃の自分が、あんなにひどい顔をしていたのかと思うと、我ながら、よく生きていたものだ。
細かい事情は、あえて聞かなかった。疲れているなら、まず休め。話はそれからでいい。そう言って、俺はただ、いつもの暮らしを、三上の分だけ少し広げただけだった。
◇◇◇
この夏、三上とやったことを、順に数えてみる。
まずは、かまど飯だ。
薪をくべ、羽釜を火にかけ、甘い湯気が立ちのぼる。蓋を開けた瞬間の、つやつやと立った米の白さ。採れたての茄子の揚げ浸しに、もろきゅう、丸かじりのトマト。畑の茗荷を刻んだ味噌汁。
ひと口食べた三上が「……うま」と絶句して、二口目からは無言でかき込んでいた顔を、俺はよく覚えている。コンビニ飯とデスクで啜る麺で生きてきた胃に、ちゃんとした飯が沁みたんだろう。
それから、露天風呂。
山の湧き水を沸かした湯に身を沈めた三上が、「骨まで溶ける」と放心したように空を見上げていた。上がってきた頬に、来た時よりわずかに血の気が差していたのが、なんだか嬉しかった。
畑仕事も、一緒にやった。
軍手をはめて雑草を抜き、トマトの脇芽を摘む。デスクとキーボードしか触ってこなかった手が、久しぶりに土に触れて、「頭が空っぽになる」と、三上は妙にしみじみしていた。
棚のDIYも、忘れられない。
板を挽いて、面を取って、ビスで組む。少し歪んだけれど、ちゃんと形になった不格好な棚を前に、三上は久しぶりに、心の底から笑っていた。作ったものがそのまま残る手応えが、画面の中で消えていく成果ばかり作ってきた男には、よほど新鮮だったらしい。
そして——何気ない夕食の席で、三上が不意に涙ぐんだ夜のこと。
箸を止め、うつむいて、堪えきれずにこぼした涙。「……こんなにちゃんと休んだの、久しぶりで」と、洟をすすっていた。都会でずっと張り詰めていたものが、山の数日で、静かにほどけた瞬間だったんだと思う。
夜には、縁側で語らいもした。蚊取り線香の煙、冷やした地酒、満天の星。「お前、変わったな。いい意味で」と、星空を見上げながら三上は言った。
あの数日で、三上の顔は、見違えるように変わっていった。
青白かった頬に血色が戻り、隈が薄れ、よく食べ、よく眠り、よく笑うようになった。帰る朝の三上は、来た時とは別人みたいに背筋が伸びて、駅前で「また来ていいか」と、しっかりした声で言った。
「いつでも。歓迎するよ」
そう答えて手を振った時の、じんわりした温かさを、俺はまだ覚えている。
……気づけば、湯呑みの茶が、すっかりぬるくなっていた。
俺は縁側にもたれて、あらためて夏の山を見渡した。
考えてみれば、不思議な話だ。この一年、この山には、腕のいい変わり者ばかりが集まってきた。森野さんも、鉄本さんも、鞍馬さんも、宵さんも、みんなどこか浮世離れした、けれど気のいい連中で、そういう縁には、もうすっかり慣れたつもりでいた。
でも、今度の相手は、ごく普通の、都会で擦り切れた人間だった。
その三上が、俺の暮らしで、俺の飯と風呂と畑で、あんなに元気になって帰っていった。人外だけじゃなく、現代の、くたびれた人間まで……この山は、疲れた誰かを癒せる場所に、なり始めているのかもしれない。
そう思うと、なんだか、じんわりと胸の奥が温かくなった。
「山を買って、よかったな」
ぽつりと、俺は声に出していた。
自分が休めるだけでも、十分だと思っていた。逃げ込んだ先で、静かに飯を炊いて、風呂に入って、眠れれば、それでよかった。それが、誰かの役にも立てるなんて、山を買った一年前には、思ってもみなかったことだ。
もてなす側になった自分を、俺は静かに噛みしめた。
あの頃の俺には、こんなふうに声をかけてくれる相手が、一人もいなかった。だから……たぶん、俺がやればいいんだろう。逃げてきた場所を、今度は誰かの逃げ場に。そういうのも、悪くない。
◇◇◇
日が傾いて、縁側に夕方の風が通り始めた。
ふと気づくと、相棒たちが四匹、それぞれの定位置に集まっていた。
肩の上でコロがまんまるの目をこすり、風呂桶の縁でスイがぷかぷか揺れ、かまどのそばでエンが尻尾の火をゆらし、作業台の上でモクが腕を組んでいる。夕暮れの光の中で、小さな精霊たちの輪郭が、やわらかく瞬いていた。
「あるじのおうち、これからもっと、にぎやかに、なるねぇ」
コロが、眠そうな声でそう言った。
「疲れた人が、たくさん来ますわ」
スイが、水面みたいに光を弾いて、得意げに続ける。
「めし、いっぱい炊くぜ!」
エンが、尻尾をぱちぱち爆ぜさせて、張り切っている。
「フン、忙しくなるな」
モクは、そっぽを向いて、けれどまんざらでもない声で呟いた。
俺は思わず笑ってしまった。こいつらは、客が来ると、本当に嬉しそうにそわそわする。この山が賑わうのが、よほど気に入っているらしい。
「賑やかになる、か」
俺は湯呑みを置いて、苦笑した。
「……客商売なんて、するつもりないんだけどなあ」
俺はただ、困っている旧友を泊めて、飯を出して、風呂に入れただけだ。それだけのことで、宿の主みたいな顔をされても困る。
◇◇◇
夜になって、俺はスマホを開いた。
三上から、短いメッセージが届いていた。無事に帰り着いたという報告と、それから、少し遠慮がちな一文。
都会に戻って、本当に疲れている知り合いに、この山のことを話したらしい。飯がうまくて、風呂が最高で、何もしなくていい場所がある、と。そうしたら、その一人が、「一度、行ってみたい」と言い出したのだという。
「泊めてやってもらえないか——か」
画面を眺めて、俺はしばらく考え込んだ。
声高に広めたわけでもないのに、細い糸をたどるように、ぽつり、ぽつりと、遠慮がちな声が届き始めている。あの山に行きたい。一度、泊めてほしい。ずっと騒がしい場所にいて、くたびれ果てた誰かの……控えめな声が。
一人、二人なら、気楽に泊められる。飯と風呂なら、いくらでもある。
でも、これがもし、これから少しずつ増えていくのなら……。
「ちゃんともてなすなら、少し、仕組みを整えたほうがいいかもな」
俺はスマホを座卓に伏せて、天井の梁を見上げた。
客間も、今のままじゃ一人分だ。風呂も、案内も、来た人が迷わず、気兼ねなく過ごせるようにしておきたい。行き当たりばったりでもてなすより、ちゃんと段取りを決めておいたほうが、俺も楽だし、来た人も気が休まる。
昔取った杵柄というやつで、こういう「仕組みを整える」話になると、元SEの血が、つい騒ぎ出す。
肩の上のコロが、寝ぼけたまま「あるじ、たのしそうなの」と、小さく揺れた。
「そうかもな」
俺は苦笑して、ぬるくなった茶を飲み干した。
一年前、俺はただ独りになりたくて、誰にも会いたくなくて、この山の奥へ逃げ込んできた。静かでありさえすれば、それでいいと思っていた。
それが今は、逃げてきたはずの場所が、誰かの帰る場所になろうとしている。
我ながら、おかしな話だ。でも……山の暮らしってやつは、どうやら、俺が思っていたより、ずっと遠くまで、俺を連れて行くつもりらしい。
窓の外で、夏の夜が、静かに更けていく。
精霊の光が、あちこちでやわらかく瞬いて、山は今日も、穏やかに息をしていた。
======
あとがき
ここまでお読みいただきありがとうございます!!
気に入ってくださった方は『ブックマーク』など高評価いただけると励みになります!
狂気の域で気に入ってくださった方は全部の話を画面下の★していだけると泣いて喜びます!!




